うれしさを~こよひは身にもあまりぬるかな 一帖一

やっぱり再びの「梅雨入り」の予感。

週間天気は「雲りのち雨」のオンパレードでした。

予報では「太平洋高気圧が弱まってその淵にそって日本列島に湿った空気が流れ込むから・・・」それを見て私は「何のこっちゃあない、それ梅雨じゃん!!」と奥方に。

 

というわけで昨日の久しぶりの日差しは貴重でした。

境内の花たちも元気を取り戻したようですがこれからの時間また気の毒なこと。

 

昨日は月曜日でしたが、御当家の都合によって法事がありました。

80代女性の方がいらっしゃいますが以前とは違って杖を片手にして歩に相当の危さを感じさせました。

つい、私も「どうしたの?」と伺えばそのご家族の方が、「ワクチンを打った途端に倒れた」とのこと。

発症は脳出血だったそうですが、その件ご家族の方は「ワクチンの副反応である」と断じていました。

その手の話を耳にするとどうしても4回目の接種について考えてしまいますね。

「齢だからしょうがない」のレアケースで片づけられるのではかないません。

 

さて、盂蘭盆のテーマは生老病死の無常。

「病に関してはしょうがないが、対応ヒントはある。老に対しては大いに抗おう」でした。

 

昨日の法話も健康長寿。

「楽観主義は寿命が伸びる」ところから始めて「病は定業」のところ。

「病」はじめ、どうにもならないことについて「悩むな(心を痛めるな)」でした。

病を得て死するは「非業にあらず」(フツーのこと)というところですね。

蓮如さんの御文「疫癘」に記された当流の理念ですが、実はこちら、そこのところ宗教の(特に新興・・・の)肝なのです。

要は「病気になった」ことそれによって縁者が死したことに「理由」を探し、あるいはこじつけること。そのような時にまず大抵は「ご先祖様が・・・」「あなたの信心が足りない」などのフレーズを出して、相手の「悔やみの気持ち」を刺激、不安を煽ってその解決のための「キー」を提示するというパターンですね。

 

その鍵をゲットするために宗教指導者の言うがままに(洗脳)多額の献金を引き出そうとする流れ。

まぁ蓮如さんの御達し(御文)の通り、私ども宗旨は「病気は定業」であるので「拘るな!!」です。ナからその「病」のネタで人の心に踏み込もうという魂胆はありません。

 

ここ相良でも早世した子を持つ親たちに「その理由はこうである」と断定し説く「変な電話」があると聞きますからね。

まずそれは不幸の上塗りに繋がるというか弱り目に祟り目。

また、弱い心に付け入る悪辣、その手の宗教詐欺と思しきものは枚挙に暇がありません。

 

病と死は場合によっては新興宗教の肝、いわゆる「食い扶持」となるテーマでした。

まぁそういった宗教団体の広告塔の如くになるということは片棒を担ぐということもありますが、何よりその集金システムにより得た果実の還流もあることでしょうし。

 

 

さて、表記は蓮如さんの御文(一帖一 門徒弟子)から。

①は弟子一人も②は歌の部分。

この御文は数ある御文の中で長めであるということと、テーマとしてそれを扱う機会がまだないそして難しい・・・というところからこれまで一度も拝読したことはなし。

 

しかしこの御文の中にも、当流の基本的というか真宗頻出の珠玉の言の葉が揃っています。

それがまず「親鸞は弟子一人ももたず」ですね。

教主教祖とその弟子の関係についてよく言われるところですが「一帖一」という御文のトップバッターでその件を完全否定しているところは特異です。

世間で「私の弟子が・・・」の「偉い方」の言いようを見て、「ホントはエラくない」・・・などと当流親鸞さんのその言葉の対比から穿って見てしまう私があります。

 

師匠ともなれば弟子の一人くらいは持ちたいということになりましょうが親鸞さんは否定。そのスタンスから出た「御同朋・御同行」の精神は当流特筆でもあります。

その「同朋」の語は当流では大切にされ、毎月本山から発行される新聞の名が「同朋新聞」ですし、境内にある集会施設の名として「同朋会館」の名がどちらの寺でも使われています。

 

そして「自損損他の咎」それはいわゆる「自利利他」の真逆であって強烈なその否定感が伝わってきます。

また「一向一心の信心決定、仏恩報尽のために念仏申すこころ」について歌を引っ張っていますがそれが表記の「うれしさ」です。

 

それでは全文転機してみます。

 

一帖の一 門徒弟子

或人いはく、当流のこころは、門徒をば かならずわが弟子とこころえおくべく候ふやらん、如来・聖人の御弟子と申すべく候ふやらん、その分別を存知せず候ふ。

また在在所所に小門徒をもちて候ふをも、このあひだは手次の坊主にはあひかくしおき候ふやうに心中をもちて候ふ。これもしかるべくもなきよし、人の申され候ふあひだ、おなじくこれも不審千万に候ふ。御ねんごろに承りたく候ふ。

 

答へていはく、この不審もつとも肝要とこそ存じ候へ。

かたのごとく耳にとどめおき候ふ分、申しのぶべし。きこしめされ候へ。

 

故聖人の仰せには、「親鸞は弟子一人ももたず」とこそ仰せられ候ひつれ。

「そのゆゑは、如来の教法を十方衆生に説ききかしむるときは、ただ如来の御代官を申しつるばかりなり。

さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにも をしへきかしむるばかりなり。

そのほかは、なにををしへて弟子といはんぞ」

と仰せられつるなり。

 

さればとも同行なるべきものなり。これによりて、聖人は「御同朋・御同行」とこそ、かしづきて仰せられけり。

さればちかごろは大坊主分の人も、われは一流の安心の次第をもしらず、たまたま弟子のなかに信心の沙汰する在所へゆきて聴聞し候ふ人をば、ことのほか切諌(せっかん)をくはへ候ひて、あるいはなかをたがひなんどせられ候ふあひだ、坊主もしかしかと信心の一理をも聴聞せず、また弟子をばかやうにあひささへ候ふあひだ、われも信心決定せず、弟子も信心決定せずして、一生はむなしくすぎゆくやうに候ふこと、まことに自損損他のとが、のがれがたく候ふ。

あさまし、あさまし。 古歌にいはく

 

「うれしさを  むかしはそでに  つつみけり

           こよひは身にも  あまりぬるかな」

 

「うれしさをむかしはそでにつつむ」といへるこころは、むかしは雑行・正行の分別もなく、念仏だにも申せば、往生するとばかりおもひつるこころなり。

「こよひは身にもあまる」といへるは、正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申すこころは、おほきに各別なり。

かるがゆゑに身のおきどころもなく、をどりあがるほどにおもふあひだ、よろこびは身にもうれしさがあまりぬるといへるこころなり。

あなかしこ、あなかしこ。

文明三年(一四七一)七月十五日」

 

長い!!長すぎる!! 

最後の「をどりあがるほどにおもふあひだ、よろこびは身にもうれしさがあまりぬる」の件は当流の「信心決定しての念仏」を表現したものです。

「聴聞」の大切さも。

 

③画像は清水庵原球場の駐車券。

発行元から相良高校経由で秋野氏が「ゲットした」ものをパシリ!!。

相良高校野球部は廃部となって残念な思いをさせられたのが昨年のこと。今年は野球部入部者が計10人を数えて再編成がかなったとのことでした。

まさに「をどりあがるほどにおもふあひだ、よろこびは身にもうれしさがあまりぬる」だったのでしょうね。

 

その初戦が17日の東海大翔洋。

ハッキリ言って天と地がひっくり返っても勝てそうもないような超強豪校ですが、その相良の奮起を目にしたいという気持ちで秋野氏は球場へ向かうとのこと。スゴイ。