西尾 大浜事件特別展の帰り途 法行寺

面倒な厄介ものが南の海からこちらをうかがっています。

恒例とはいうものの予定が台無しになりますね。

スケールとしては大したことは無さそうで雨が主体でしょうが、西から日本列島に沿うように北上するコースは、日本に住んでいる私たちは地域の当たり外れなく漏れなくその「面倒」を被ることになります。

 

自然のものですから「おまかせ」する他はありませんが、それに人の誤った判断、人が作った構造物の欠陥が災害に繋がることも多々ありますから。

熱海の盛土崩壊事案から1年経ちますが、その手のものがまだこの社会にはまたぞろあるとのこと。

 

金儲け主義の業界の形振り構わない行状を容認してきたお上の罪は重い。市、県、そして国。

容認にはバック(マージン)、利権が付き物。

懐を肥やした輩がいたと思うのが普通ですね。

 

さて、先日は長因寺のところで記しましたが長因寺の石川姓も

蓮泉寺の石川姓も法行寺石川姓との関係は「よくわからない」との法行寺住職の印象を記しましたがこれは法行寺発祥の経緯の事。

「よくわからない」の回答はいたって適切です。

それが「歴史」の当然のところですからね。

文献があればそれにのっとって「推測」するだけですから。

しかしながら私の勝手な推測をすれば法行寺「石川」はどちらかといえば蓮泉寺「石川」に近いような気がしないでもありません。

 

私など毎度勝手に想像力を働かせるばかりです。勿論その余計な想像力とは私の父の母親(要は私の祖母)が法行寺から拙寺に嫁として参ったからですが・・・。

真宗王国といっても過言ではない三河安城に育ち仏法といえば「六字名号」しか知らない人にとってこの遠州のド僻地の相良の水はさぞかし苦かった(合わなかった)でしょうね。

何から何まで・・・

 

そもそも法行寺の歴史は深く、開基は天元二年(979)で応仁年間(1467~)に蓮如さんに帰依するまでは天台宗。

真宗寺院としてリスタートが拙寺よりも約100年も遡ります。

その時から現住が28代を数えるところ頷けますね。

 

その法行寺の数代前に「高野-たかの」(天保十三~明治三十七)という坊守がいたといいます。

その「高野」が順成寺十世の了皆(布界)-専覚寺の二男-と妻「けい」との長女。「けい」蓮泉寺了遷の娘でした。

そもそもその「けい」は順成寺九世「得成」の妻でしたが「得成」逝去のためその長子、のちに順成寺十一世となる「見成」の成長を待つため順成寺にピンチヒッターとして入ったかと。

 

寺を維持するために父が先に亡くなった場合などその息子が成長するまで隠居の祖父だとか近隣寺院が代務として入ることはよくありますが住職を亡くした寺に坊守の夫として他寺院から入る例も無くはないわけで。

 

この「了皆」と「けい」の長女「高野」は法行寺に嫁入りするのですがその弟(三男)が「了円」、のちに蓮泉寺に婿入りする石川台嶺になります。

 

そこで私の祖母の石川文子。

平成二年(1990)に亡くなっていますが年齢のことを聞けば「昭和天皇と同じ」というのが口癖だったよう。明治三十四年(1901)生まれになります。

石川台嶺の姉「高野」は私の祖母の祖母ということ(ただし法行寺の家系図及び過去帳を確認したわけではありません)。

ということで拙寺に順成寺から入った七代祐信の件もありますが、石川台嶺に対する私の思いは深いものがあります。

明治維新なる語が大嫌いであることも・・・

三河では当たり前でも遠州で「その名を言われても・・・」でしょうが。

 

法行寺の山門がキレイになっていました。

 

最後の画像が昨晩咲いた月下美人。一昨日に引き続き2つめ。

葉はくたくたボロボロのみすぼらしさばかり目立つ植物ですがその花の開花、美しさは圧巻。朝にはしおれてしまいますが芳香もなかなか。咲く時は庫裏へ。

通常時の見た目とは雲泥の差とはこの植物のことですね。

昨冬に大分枯らしてしまいました。

挿し木で増えますが・・・増やせば面倒にもなります。

ただしこの感動は悪くない。