多聞山城の石垣にされたかも 松永の物分かり 徳融寺

「これが梅雨か・・・」と思い起こさせられるほどのジメジメ感と土砂降りの一日。気分は最低、耐えがたいものがあります。

毎度の季節のイベントとはいえ早いところ明けて欲しいものです。

 

沖縄の梅雨明けは例年より早くて、テレビ画面の中の快晴と穏やかな青い海の景色を見ると、かつて体感した至極の時間を思い起こすわけで、奥方に「今年も行けなかったね」とため息をつくと、「あんなところ、もうサラサラ行く気にはならん」とつれない返事。

シミだらけのボロボロ「廃墟の如く容姿」になるのでカンベンしてくれ・・・といいます。

そして奥方は最近になって特に「飛行機なんて信用できない」を強く主張。

 

年齢を重ねて「守り」に入っている感があります。

それがまた齢をとらせてしまう発想なのですがね。

老化に抗うには現状維持守勢は老化の思うつぼになります。

まぁ、私ども場合はただ単に「寺を空けられない」の一語に尽きるのですが。

 

さて、福融寺本堂前には石碑と看板が建っています。②の図ですがしっかりと石碑に彫られた文言も撮影したのですが、まっくわからないような出来栄えでそちらは控えました。

光の加減もありますが、黒系の上等そうな石質の場合、凹凸がハッキリとせずに判読できないことはよくありますね。

 

内容は掲示板の通り歌が記されています。

松永久秀が多聞城(またはこちら こちら)石垣のための材料として付近の寺から集めていた石材について、寺から届けられたその歌を弾正が詠んで感じ入り石材徴収をやめたとの談。

その歌について無教養の私など何の事やらチンプンカンプン。

その件事実ならかなりの教養人であったことが・・・

 

①手前方の石柱も吉村長慶⑨の手によるものか。