大井川以東「向う榛原」宗高権現 家康床机据え跡

昨日は焼津のホールのドタバタについて記しましたが、それは一言で地域性なのかも。

私ども真宗宗旨への理解度の低さでもありますが、それはまた真宗寺院が少なく、当然ながらご門徒さんが少ないということですね。

 

ホールは数少ない真宗門徒のために「設備を合わせる(用意する)必要がナイ」ということでしょうかね。

発言力が少ないだけにただ与えられたもので「黙ってやれ」というのもまぁ仕方なし。

捻くれ者の開き直り、私なりの対応をさせていただくだけです。

 

この焼津方面真宗寺院少なし・・・の件、駿河湾沿海域に住む私たちはその状況の線引きとして(そもそもこの辺りの門徒衆は少ない)特に「大井川を超えると・・・」というのが定説になっています。

信長による覇権を嫌って河内、近江、三河の門徒衆が東海道を東へ、ちょうど大井川をもって止まるということです。

温暖かつ肥沃な大地は魅力、敢えてそれ以上の東行きは不要と考えたのかも知れません。

 

その大井川といえばいわゆる遠江と駿河の国境線ということで認知されていますが、最近では両国とも同じ静岡県ということでもはや「どうでもいい」ようなかつての線引きとなりました。

金谷が島田市に併合するなどその川で区切る意味は無くなってしまいました。

 

そのかつての国境線たる大井川、昔から流れを変えていたことで有名ですね。東側では今の栃山川辺りが本流であったと言いますし、西側でいえば小山城下から吉田漁港に流れる湯日川、そして武田水軍があった・・・などと思量した坂口谷川、それ以上遡れば勝間田川などかつての大井川(国境)の位置が変わっていたことが推察できるところ。

 

小和田哲男先生の「信玄・家康の駿遠分割案と駿遠国境」という論文に詳しく記されていますがそちらから少しばかり転記。

 

「(文献の記述を示して・・・今の大井川より東側の地の) 近世の村でいえば、上泉村(善左衛門新田)・相川村・上新田村・下江留付・西島村・宗高村・上小杉村・下小杉村・藤守村・中島村・吉永

 

村・吉永利右衛門分・吉永高新田・飯淵村・飯淵新田が遠江国榛原郡に所属しながらかつ大井川以東の地域という意味で大井川の向う側の棒原郡という意味で向榛原の名でよばれていた。」という件です。

 

「向榛原」という名称は大井川の向こうの榛原郡ということですが、それは「今はその地とは大井川が隔てているが古くは大井川はその向こう(栃山川-別名、「堺川」辺り)にあった」ことを示唆する名称でしょう。

 

小和田先生の論文は永禄十一年に家康と信玄が大井川を国境に今川領を双方で分ける密約について、「当時の国境はかなり曖昧(不統一)」であったとし戦国期の大井川国境のイメージは湯日川と栃山川の二流の主張があったとの説を展開。

よって信玄の大井川越境による小山砦の築城についてそれを単純に盟約破棄の「遠州侵攻」とは言い切れない部分があるとのことでした。

 

さて、私が焼津方向に向かう際は国道150号線の利用となります。

大井川を渡っての旧大井川町は今は焼津市になりますがそこから栃山川に至るまでを「向う榛原」。

その途中に上記「宗高新田」の信号があってそちらを飛行場の方向へ右折、南下すると、「宗高学校」の碑(静浜幼稚園東側)。そちらより50mほど東の田んぼの中に家康の鷹狩の際の休憩場(代官屋敷跡)があります(場所はこちら)。

 

焼津歴史民俗資料館より

床机据え跡は、徳川家康が当地へ鷹狩りに来た際に、床机(折りたたみ式のイス)を据え、小休止した旧代官屋敷跡である。

中世、宗高の地は、池谷清右衛門という土豪が治めていた。

清右衛門は天正年間より家康に仕え、慶長6年(1601)には宗高村周辺(旧大井川町一帯)の代官に任じられた。

池谷家の由緒によれば、家康は慶長6年と同11年(1606)当地へ鷹狩りに訪れた際、清右衛門の代官屋敷に立ち寄り、庭に床机を据え、食事を取ったりした。

家康の死後、清右衛門は幕府の勘定奉行に伺いを立て、将軍徳川秀忠の許可を得て、家康が小休止を取った場所に霊廟を建てた。そして、幕府より授けられた家康の肖像を御神体として、家康の使用したとされる茶道具類とともに納めて祀った。

この霊廟は、宗高権現と呼ばれる。」

 

あまり継続的な整備はされていないようで学校の石標前の掲示板は朽ち果て、権現社の掲示板は木々に覆われていました。

余談ですがこの地にはその「池谷」姓をよく聞きます。

 

 

 

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コメント: 2
  • #1

    お祭り大好き (水曜日, 15 6月 2022 09:31)

    大井川流域の旧本川根町(現川根本町)も両岸の駿河・遠州の村が合併しており、両岸の2社で斎行された民俗芸能の「梅津神楽」が伝承しています。 某氏が安倍川流域・大井川流域の神楽を「駿河神楽」と名付け自治体・マスコミも4字熟語に飛びつき安易に使用しましたが、「梅津神楽」の役員は遠州側の伝統芸能でもあると猛反対しました。 文化庁が「国選択無形民俗文化財」に指定時は、その辺を良く調査されて長い名称「静岡県中部地方の神楽」として正式に命名しました。 指定後も相変わらず不勉強で誤った名称を用いている研究者・自治体・マスコミが散見されるが、地元の伝承者の気持ちを尊重することが大切と感じています。  たかが一地域の地名でも、地元最優先が不可欠と思います。 ご迷惑ですが、私感を記述しましたがご容赦ください。

  • #2

    今井一光 (水曜日, 15 6月 2022 20:00)

    ありがとうございます。
    私も旧国名「駿遠」厳密は大好きな傾向にあるにはありますが、そういう遠州人自称の私も日頃、駿府にお世話になる事ばかり。
    そして一般にやはり「同じ静岡県」ということでその「境界」はどうでもいいレベルになっています。
    そんな中、しっかりと以前の呼び名に拘るという方がいらっしゃるということは本当の歴史を伝承していこうという気持ちが前面に出ていてとてもよろしきことかと・・・。遺していきたいですね。