ただ思うことは力関係 ズルイ 梵鐘供出 金属回収令

昼前には雨が降り出すという予報があったので、昨日の法事はいつもの順番を変えてお墓参りから。

それから本堂に入っての本法要でしたが結局4時過ぎまで雨は降りませんでした。

梅雨入りは覚悟していますが、早いところスカッと晴れ渡って欲しい。

それでいて暑ければ暑いでヒーヒー文句たらたらの皆さんが居るのですがね。

ちなみに私は暑さへの耐性はかなりある方です。

 

その私の対人スタンスの基本は怒らないこと。

仏教世界では特にイケない心であると念押しされている「瞋恚」ですが、人と人との間に居て「おかげさま」「生かされている」などと日々説法している身がそのドロドロの怒りを抱けば坊さん失格です。

 

しかしながらブログでもどこかで記していましたが私も人の子、怒りを顕わにしたこともあります。

性格上その怒りには遅延性があってじわじわタイプ。

いわゆる「瞬間湯沸かし器」ではありません。

声がデカイというのが負のイメージを増長するというのもありますが、ついつい反論口調のトーンが大きくなって喧嘩腰になってしまうということがありました。

 

「影武者」撮影中のクロサワが主演の勝新太郎に意見が合わず「やめてもらうしかない」と引導を渡すような経緯があったと言いますが、私もかつてその同じ台詞を吐いたことがありました。

 

理由は一つが「先方が本堂での法要を拒絶、墓前での法要」に拘ったことに対して、二つ目が檀家さん同士の墓地区画の問題。

両事案とも先方のヒステリックな感情の高ぶりを見て、私は「そんなら、お引き取りを・・・」と。

要は寺の中でのイザコザは御免だ・・・ということですが、両事案とも私の心に今もある「残念」でした。

 

クロサワは「監督は二人もイラナイ」と述べていますが要は私も「住職は私である」というところでした。

まぁ若気の至りということもありましょうが、怒りの基本は「阿弥陀仏一向専念の寺」としての気概でしょうか。

その意を無視された際にカチンとくることがあります(今更ながらそれも恥じいるばかりですが)。

 

それは人間としてまず致し方ないことではありますが、要はそれをコントロールできるかどうかという点が大事。

それこそ耐性の養生、蓄積ですね。

それは経験を積むことによって得られるものと考えていますが、昨日ある方から単純な質問を受けてまんざら、その積み重ねだけでは語れないものだと思ったものです。

 

その方の質問は「腹が立って(住職とケンカして)〇〇寺の檀家をやめてきた・・・なる話をよく聞くが、それはどういうこと?」というもの。

どういう切り口からそれに回答しようかと一瞬、迷いましたが私は一言「住職はエライからでしょう・・・」。

厳密にいえばクロサワや勝新と同じ、(スケールやその山の種類の違いはあっても)いわゆる「お山の大将」であって、もっと突っ込んでいえば自分が「エライと錯覚」しているということですね。

 

父親もそうでしたがしばしば前職を教師としてあった住職がその傾向が強いのかもしれません。

要は檀家さんは生徒にしか見えないのです。

檀家さんとしても生徒になった気などさらさらありませんので、そのタカビーな「先生」の口調にカチンカチンと爆発してしまうという構図があるのだと推測、説明。

 

その談の中、改めて「平等施一切 同発菩提心」の通り「みんな同じ」であり上下を感じさせない会話を心がけなくてはならないことをあらためて思いました。

 

日々「思いやりが大事」など言っていながらカッカと怒りまくって相手、他者を罵倒したりすれば「ちゃんちゃら可笑しい」と後ろ指を指されることになりますからね。

ただでさえ、余計なことを言って相手を傷つけるようなことを平気で吐く傾向がありますので。

それでは後ろ指どころか阿弥陀様の前に立てなくなります。

「怒っちゃダメ」・・・当家の掟。

 

さて、昨日記した徳融寺の吉村長慶の変わりだねの石碑のバックにお寺の梵鐘がありました。

梵鐘といえば真っ先に思うことは戦時下の金属回収令という国の無茶苦茶の愚策がありましたので、現存するものといえば拙寺同様、①戦後落ち着いた頃合いに再鋳造されたものか、②室町あたりでも前中期以前の古いもの、③有徳人ほか有力者による政治的介入によるお目こぼし・・・の3つに一つ。

 

ということで掲示板に目を通して③であることが確認できたのでした。

まぁこういったインチキの存在は「みんな同じ」ではなかったということ。供出させられ溶かされた夥しい梵鐘たちからすれば「ズルイ、ズル過ぎる・・・」と思うところでしょう。それを思うも煩悩。