松平親氏 メディテーション(三昧)はレジリエンス養成

拙寺が月一回、催している「念仏メディテーション(三昧)」。

なんとかこれまで1度も休まずに継続させていただいて、今月で1年と5カ月が経ちました。

堂内は薄暗くて当初はどなたかわからない部分がありましたが、参加者の異動もあって最近は「いつもの顔ぶれ」となっています。

 

当初この「メディテーション」の、やりかた、思考方法などを説明したことがありましたが、それは主に呼吸法に重点を置いたもので思考については「感謝に帰結するポジティブなもの」であれば比較的自由というのがこれまでのところ。

 

そして基本「私のお話は無し」で「質問があればどうぞ~」的に閉会していましたが、今回は少しだけお話の時間を前後に付け加えさせて発展を考えました。

 

それが表記、「メディテーション(三昧)はレジリエンス養成」のための訓練である・・・という件です。

あまりにカンタンそうで人によっては「バカバカしい」とも思われがちになるこの瞑想タイムは何時でもどこでも「自分勝手」ではありながらも1日3回くらいはやって欲しい「トレーニング」です。

 

また「念仏メディテーション」と「念仏」を冠にする理由はやはり同じように瞑想修行と一般に知られる「座禅」との差別化ですね。

その「禅」の中心的考え方は「私の心を(時に「無心」に)一点に集中すること」と私が決めつけるとすれば、念仏~の「集中」に関してはそれを努力するもののその散漫・無集中についてはただ許容するというところ。

人間だからその集中はそもそも無理であるというのが大前提であるということです。

 

集中しようとしても集中しきれないのが人間の本性であり、逆に集中しすぎるとドツボにハマってしまうもの。

最近の私の例でいえば内視鏡検査にいえるかも知れません。

内視鏡カメラが口の中から食道を通って胃の中をあっちこっち行ったり来たり、人体の構造の問題(異物を吐き出そうとする拒否反応)と心理的不安が増幅する瞬間ですが、近くにいる看護師たちのアドバイスは「目を瞑らない」ですね。

 

目を閉じて自分の世界で「集中」するということは「不安」の増幅以外の何物でもありません。

よって目を開けたままにして外部の情報を収集し要は「集中するな、散漫になれ」ということを示唆しているのかと。

健常状態に於ける「究極の苦痛」を体感する際、そのストレスに対してその心はストレス一点に集中してしまい、思わぬパニック状態になり得るのです。

 

そこでメディテーション。

おかしな話というのは、そもそも「完全な集中」などできないことをわかっていながら「集中しましょう」というところですね。

 

その集中の努力から逸脱したことに気づいて修正、元のポジティブな感謝のイメージというテーマに戻ろうとする繰り返しを行うというところがそのトレーニングになります。

何のための訓練かといえば回復力、復元力、修復力の養生ですね。

 

その「レジリエンス」とは「ストレス」の対義語です。

先日はその喩えに卵の硬い殻とゴムボールを対比させて説明しましたが、堅そうに見える「殻」は外部からの圧力(ストレス)が加わるとすんなり割れて中身が出てしまいます。

ところがゴムボールはしなやかに弾んで元に戻ろうとします。

その元に戻ろうとする心、外圧(ストレス)からしなやかに修復できる心を作ろうというものがレジリエンスの訓練。

 

ストレスに集中(拘り)したとすればドツボにハマることは目に見えています。

よってストレスを感じたら修正していきたいもの。

それを日頃のメディテーションで訓練するのです。

 

ここに「ウィキペディア」にも羅列掲載されていますが提唱されている「レジリエンスを築く10の方法」を転記させていただきます。大切な事ばかりです。

 

①親戚や友人らと良好な関係を維持する。

②危機やストレスに満ちた出来事でも、それを耐え難い問題とし 

 て見ないようにする。

③変えられない状況を受容する。

④現実的な目標を立て、それに向かって進む。

⑤不利な状況であっても、決断し行動する。

⑥損失を出した闘いの後には、自己発見の機会を探す。

⑦自信を深める。

⑧長期的な視点を保ち、より広範な状況でストレスの多い出来事

 を検討する。

⑨希望的な見通しを維持し、良いことを期待し、希望を視覚化す

 る。

⑩心と体をケアし、定期的に運動し、己のニーズと気持ちに注意

 を払う。

 

まず①は大切。なぜならば私たちは「人間なのだから」。孤独ではなく必ず他者への感謝があるということ。

②がたとえば直近の内視鏡検査による心。

③受容=当流では「阿弥陀におまかせ」。受け入れましょう。

④前向きに

⑤逃げない・・・・

 

さて、松平親氏のメディテーション。

彼はそもそも時宗の流浪の念仏僧。

松平郷には親氏御用達のその場があります。

現東照宮やら高月院からそう遠くない場所ですが、座禅、瞑想の場として御誂え向きの巨岩があります。

 

高山寺明恵上人の樹上の座禅姿の画像は有名(下図)ですが、実際の明恵上人の瞑想タイムは寺の裏山の石の上だったといわれていますね。

山の中腹の石の上で瞑想していれば下から仰ぎ見た場合、前側の木の上に居るように見えるかもしれません。

 

私は親氏がこちらで瞑想したとして、その石の下の祠の前ではなく石の頂上にいたのだ・・・などと思ったところ。

 

坊さんと言えば私もそうですが「木と石」に親しむ機会は多くあります。どちらの作業中でも瞑想はできますからね。

草むしり瞑想など単純作業で怪我はなし。

それは私のいつものパターン。

念仏-集中-雑念-修正-念仏-集中・・・雑念上等、当たり前。感謝。雑草むしってごめんなさい・・・