昨日ブログでは訴訟に発展しそうな事案を2つ記しましたが昨日の法要の施主も同様の問題を抱えている方でした。
坊さんがその手の紛争の件、知ることが多いのはそれが人の「死」をもってスタートするということでしょうね。
ある意味自身の「死」についてあまり理解されていないうちに後処理をまかせて逝去する方が多いのかも知れません。
「まだまだイケる」と思い続けて亡くなってしまうのですが、「飛ぶ鳥なんとやら・・・」とも言いますし、「あとのこと」とはいえまかせずにできるだけ事前に片づけて始末、それ基本でしょうね。
檀家さんのドロドロの訴訟合戦に坊さんが顔を突っ込んで恨まれるという例も聞き及びます。どちらかに肩を持てば相手の心情を悪くして良からぬ噂を立てられる・・・是非に避けたいところですね。
檀家さん同士の場合は静観、檀家さんと私と無関係な人との「諍」でしたら檀家さんの肩を持つというのは当然ですね。
しかし大抵その財産権の主張合戦にいくら坊さんが仲裁に入ったとしてもこじれ具合が修復不可能な域に達しています。
双方とも冷静さを失っていることが多いものです。
何度も記しますが「私も死ぬ お前も死ぬ」のですから、そのあの事大したことがないのですから何とかしておきたいものです。
今回の事案は正式な葬儀主催者不在、嫁に出た娘が相続権者となりますがそれが後妻の娘。他に前妻の娘が居て、その方と土地家屋の相続で争っているとのこと。
またご夫婦には養子で居れた娘が居て、家を出てきり、葬儀式にも来なかったとのことでした。
本来ならその幼女が葬儀を出さなくてはならないはずでした。
「育てていただいた恩もへったくりもない」というのがこの世に棲む人間の本性なのか・・・とも感じた次第。
鳥たちでさえキレイに旅立つのだから。
人の「死」に立ち会うということは他にも見たくない色々なものとの遭遇がありますね。
かつて罵りあいの場面に出くわして「まぁ、まぁ そういわずに・・・」と宥めれば「住職は帰ってくれ」とまで言われたこともある私です。
さて、心和む山のお寺の境内の歌碑。鳥の声を聞いて心の濁りを一掃したというのでしょうか。
場所は昨日ブログと同様、松平郷の高月院です。
③画像 「笹子鳴く 高月院の 昼澄めり」。
今の時分ともなればウグイスの声は既に立派な美声ともなっていますが、春先のその声はいかにもヘタクソでそれでいて一所懸命さを感じさせます。
「笹子」とは冬場のウグイスのことを言いますがその声が一瞬にしてその空間を清浄空間にし、その心をも澄まわせたその感動の句なのでしょう。
拙寺境内でも完璧な歌い手となった彼らが空を澄まわすしてくれています。
その声を聞けば幸福感が充満して一日が充実してくるものです。
ありがたく、人を喜ばす彼らです。ウグイスはそんなことはまったく知らず、ただ本能の通り、お相手を呼んでいるだけなのでしょう。ホトトギスに騙されるなよ・・・。
①梵鐘の音よりは鳥たちの声がよろしいようで。
②は家康のお手植えと伝わるシダレ。
松はより大木に成長しますが寿命は短く、400年以上となると難しいでしょうね。末永く生きる植物はやはり杉でしょう。
いつかはその桜も拝見したいものです。
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