山号は本松山 阿弥陀如来立像と葵紋 高月院寂静寺

昨日も朝から連日の榛原病院行き。

人間ドッグで内視鏡検査(胃カメラ)を選択した場合は一日前にPCR検査で陰性の確信を得たい・・・というのが今の病院の態勢です。よって一昨日の来院は事前検査でした。

 

最近はブログにて「死ぬよ 死にます・・・」と「死」の語を吐き散らかしていますが、実は私、今年になってからこれまでになかったような体の不調が出てきていたわけで、まぁそれをあげていればキリがないのですが、特に「そろそろお年頃」ということでしょうね。

また、仕事がら頻繁に耳にする嫌悪すべき、「ステージ3」だとか「余命3カ月」の宣告について、それが今あったとして「覚悟があっていい」というのが昨今の気持ち。

 

それ(病)ばっかりは年齢に関係はありませんしいつもの蓮如さんの御文(5-16 白骨)からすれば

「我や先、人や先」の通り「私が先に(死ぬ)」こと往々にあって「(今日とも知らず、明日とも知らず)おくれ先だつ人は、本(もと)の雫、末(すえ)の露よりも繁しといえり」・・・で後から後からどんどん追いかけていくように人は死んでいくもの。

 

命の儚さをしばしば「露」に喩える(あっという間に消えてなくなる)ことがありますがその「もとの雫」と「すえの露」の対比について松の大木を連想してみてください。

 

「もと」とは大木の幹部分、「すえ」を松葉とし、その松葉の先端から零れる露を命に喩えます。

また幹は自身、松葉を他者とも。

するともとの大木の幹に流れ落ちる雫は先端の松葉の先からの露より断然多いもの。

なにしろこの「私」の生かされている世界には「死」というものが隣り合わせの如く無数に「ある」ということです。

 

それも「人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば」であって年齢老若の順番などまったく関係ありませんから。

 

ということでいつもと違った人間ドックの(仮の)検査発表を覚悟しながら神妙になってその部屋に入ったのでしたが、結果は「概ね問題ないだろう」との弁。

私のその継続許諾を頂いたようでありがたく生かされている自身の命をまたも実感。

 

改善すべき点への指摘は多々ありましたが、一番気になったのは先生が心電図を見ながら「飛んでいるね・・・」。

「心臓が止まっている時があるの?」と聞けば先生はニヤニヤして黙るのみ。

そもそもその件、若い頃に私は「洞性不整脈」を指摘されてい

て、この頃それを言われなくなったものだ・・・と安心していたのでで、治ったワケではなかったということですね。

 

スグにどうということはなさそうですが、「何がヤバいの?」と聞けば「血栓ができやすいかなぁ・・・」とのこと。

「要は食い物」注意のまとめ。

「天ぷらにラーメンとか・・・ダメだよ・・・」でした。

 

奥方の方は「甘いもの控えなさい」のご注進を頂いたわけですが、その件大いに不服そうでした。なぜなら当家で「甘いもの」の代名詞といえばすなわち私の方ですからね。

奥方の場合は「もっと運動しなさい!!」ということ。

 

さて、松平郷高月院(一昨日ブログ)。

通称「高月院」の寺号は「寂静寺」ですが、山号と言えば「本松 

山」。

いかにも意味深な山号と思えます。

松平の「松」の(そもそも)幹となる・・・のはこちらの「松」です・・・の主張の如く。

 

堂内に入ると立ち姿の阿弥陀さんがお迎えしてくださいます。

関西風に形容すれば「シュッとした」顔立ちと姿とでもいいましょうか。

勿論「葵紋」の数と煌びやかな荘厳はタダモノではない感漂います。

居並ぶ厨子の中身にも興味はありますが・・・太郎左衛門系の位牌が納まるのでしょう。