大浜騒動150年 順成寺は石川台嶺出生地

私の周辺でも数ケ寺の廃寺の件、見聞しているということを記しました。

その「廃寺」の語はあまり気分のいいものではありませんね。

日本史上、その廃寺はいたるところにあって「○○寺廃寺跡」等の石標を見かけることはありますが、それは長い歴史の中での消滅。ところが、これまでこの時代まで続いていた古い歴史ある寺が消えていくことは見ていて辛いものがあります。

 

廃寺とは最近の別の言葉で言い換えれば「宗教法人の解散」です。「これからはそれぞれ皆さんののご意思におまかせする」と檀家さんからその了解を得て本山やら県庁に手続きを進めることになります。当流では「代務者」としてその手続き進行を手伝う寺の住職が指名されますね。

 

拙寺先代(父)は静波の光正寺の解散に際してその代務者をしていましたが、かなり面倒な手続きだったように見受けられました。

本堂の解体が伴いましたので本尊と周辺遺物の取り扱い。

本尊に関しては本山に引き取りを依頼したそうですが、あとの色々の「始末」については私は関知していません。

 

何度か記していますが、真宗はその発祥が個人の所有家屋を聞法道場に変更したものが寺であるというところがありますのでまずは本堂・庫裏の解体も土地の転売も個人での処分になります。

当時は今のように当地の不動産にはそれなりの評価があった時代。

そして驚くべきことは解体更地後、スグに買い手がついてスグに家が建てられていました。

聞けばお墓はダメだが本堂の跡地は「むしろ好まれる」とのこと。その辺りの事情についてよくわかりませんが。

 

そのお寺も①後継者不在、②経営継続不可(檀家数少なし)、③本堂維持修繕費の3点のうち①が最大ネックでした。②③も当然の事ですが嫁に出た娘たちのみで男子は不在でした。

厳しいご時世ですから「無理なものはムリ・・・」という具合に解散申請-解体と今思えば「あっという間」の出来事だったような。

 

先日も「本堂を解体して更地にする・・・」といったニュースがありました。

信長の側室、吉乃(きつの)の墓のほか生駒家の菩提寺としてこれまで続いていた尾張は(現江南市)久昌寺の件。

以前からその寺の解散について報道で知っていましたがどうやら継続のための資金の工面ができなかったようです。

 

法人の解散があったとしても行政あるいは有志、有徳なる人の力で史跡保存できるのではないか・・・などと楽観視していましたが、このほど住職(生駒氏)は苦渋の決断をしたそう。

 

解体が決まってから初めて本堂の図面が起こされたようですがこれまで真っ当な調査の手は入っていなかった感。

要は市に「おカネがない」ということなのでしょうかね。

 

本堂の材は「天正期」とも言われていますので古め。

解体はいかにも気の毒で勿体ない。

ウィキペディアに本堂画像がありますのでそちらをどうぞ。

拙寺の本堂以上のスケールでしょうね。

報道で見た堂内の柱も立派でした。

 

西尾市が真宗寺院詳細について調査報告書など上げていることから比べて少しばかり「どうなんだろう」と感じたところ。

そしてまた西尾市の報告書に掲載されている本堂たちは殆ど江戸中期以降のものですからね。

 

さて、その西尾市の調査報告書に掲載がある拙寺の゙遠い親戚゛「順成寺」ですが、今のところ本堂庫裏を解体するという報せは聞こえていません。維持管理は大変なことですが何とかこのままでお願いしたいところです。

こういった事案が増えれば自治体としても「無理なものはムリ」なのでしょうね。ただし継承者が不在の場合は市で「なんとかする」他はないのでは・・・墓域も残っていますから難しいことは多々あります。

 

その順成寺本堂前の寺標。

そのサイドと裏側について文言「石川台嶺」の名があります。

その人は三河の真宗寺院ではかなりメジャーな人です。

その人の名もそうですが「大浜騒動」の方がこの地区では人口膾炙。

私からすればいつもの「腹が立つ維新と廃仏毀釈」の一つとなります。

 

石標ウラにありますように石川台嶺はこちら順成寺の出身。

元はといえば安藤家の人です。

拙寺七代目の祐信が順成寺の安藤家に正徳四(1714)年に生まれ、130年後の天保十四(1843)年に安藤家に生まれたのが台嶺。

長男は自坊を継ぐというのがスジですので三男の彼は義子(養子)として家を出たというところ。

同じ三河の寺(石川家)に入りました。

台嶺からすると拙寺七代祐信は大・・大叔父の如く。

果たしてその存在について知っていたかどうかというレベルですが、やはり私からすれば遠い遠い親類縁者の一人。

 

それにしても当時の順成寺は拙寺もそうあったのですが義子を輩出して他家を救ってくれていたことに相違ないこと。

今は廃寺となったとしても(復活の可能性も無くはない・・・)少なからず「記憶の片隅にある」という人たちは存在するわけですね。

 

維新という激動の中、「歴史の気まぐれ」の不慮な事案をきっかけに流され、結果、刑死とはなったのですが、私はその人を誇りに思って息子にそのあり方を伝えています。

時々、斬首される際の気分というものも想像しますが・・・

 

尚、石川台嶺の件は「大浜騒動」でググってください。

 

大浜騒動は明治四(1871)年のこと。

今年はその特別展が西尾市の岩瀬文庫にて催されます。

前後期2回に分けての開催ですから、奥方には三河行脚の絶妙の理由ができたわけで。