西三河 碧海 幡豆 加茂 額田 / 東三河 宝飯 八名 渥美 設楽 「三河国二葉松」ダウンロード シロ

先日のNHKの立花隆氏の番組の内容が結構に頭に残っています。

大抵はテレビ番組の内容などあっという間に消えてなくなるものなのですが、数日経ってもそれは私の中に「まだある」という感じ。

そしてその放送の翌朝に法事がありましたが、それについて少々所感を述べさせていただいたところでした。

 

自然科学に対する造詣が深い師から「生と死」という仏教的テーマが持ち出され、自問自答(我が死との対峙)の挙句、遺言として①夥しい数の蔵書をすべて処分②遺骨はゴミ箱に捨てる・・・だったわけです。

「死は無である」と結論付けていましたから、おそらくそれを発想したのでしょう。

師の思いとしてそれはそれで尊重すべきとは思いますがちょっと意思強調しすぎ。

問題は②でしたね。師らしくない短絡は、おそらくそうとでも考えていかなくては自らの死を超えられなかったのかも知れませんが。

 

番組としてどういった落としどころにするかとも思っていたワケですがそもそもその「ゴミ箱」行きについてはあきらかに脱法行為です。できるはずもなく最初から諦めなくてはなりません。番組でもその件は伝えていました。

①に関しては逝去後にその遺言が実行されて書物は1冊残らず処分されて空っぽの書棚が映し出されていましたが・・・。

 

②は結局「こうしました」といったアナウンスはありませんでした。ただし番組最後に大木とその新芽を愛でるシーンがあって明らかにその木の根元に「埋葬したのだろう・・・」と視聴者に勝手に想像させるシーンがありましたね。

 

それに関してはやはり限りなくグレーゾーンであってキレイなシーンのカットではありましたが、首を傾げるところ大です。

私が思うにその番組は師の偉大さを追悼する意図があるとは思うものの、結果、却って師の宗教への無理解、無知の人だった・・・などと貶めてしまった感もありました。

 

師の願いその②の「ゴミ箱」に関しては、そもそも無理な話なのですが、その意はいわゆる無神論、無宗教者としての師の自信であってその決定の根拠となったよう。

すべての理科学系の人がそうであるとは限りませんが、その発想に陥りやすいところはよくあるようで、私はそれを「自分教」と考えています。

当然にそれも「宗教」。

それも・・・教祖が「私自身」というヤツで私ども坊さんの立場からするといかにもチンケなものの類となります

 

番組最後のシーン「樹木葬」らしきことがあったことを推測できるところでしたが、その遺された親族知友が集まってその大樹より生えた新緑を愛でる様子、亡き立花氏を感じるところこそが「宗教」を感じたところでした。

そこにその番組と師の発想の矛盾を感じてしまいました。

 

結論、「私の死」は死して終わり(無への到達)などでは到底あり得ず、死しても故人は今生きる人々の心に残っていく・・・伝わっていく・・・ものなのです。

「無」に結論づけてしまったら「感謝」も「反省」の思い(「気づき」とも言う)すら芽生えることはナシ。

それを気づけない者はよく「薄らトンカチ」と言われたものです。

 

そしてまた1歩譲って、若くして病魔に襲われ死を待つのみの子供に、ミサイル攻撃を受けて瀕死の重傷の子供に向かって「死は無である」(あなたの人生は無駄であった)から「遺骨はゴミとして捨てます」などと言えるものですかねぇ?

 

 

また、昨日紹介した「参河志」を思い出してください。

それは「三河の歴史」と端的に言い換えられますが「史」が「志」になっていますね。

当時としては「音」主体の社会ですから「シ」の字体などどうでもいいところでもありますが(その「志」とはそもそもが「地誌」の意味があります)現代人にとっては違和感があるかも知れません。

それは歴史とは「人々の心の思い」の連続であるということを示唆しているのです。

「死、死した人」の遺したもの、あるいは遺徳までも一緒くたに捨て去るなどいうことはハナからできないというのが日本の文化であったのに・・・という残念無念をもその番組を視聴して思いました。

 

さて、その「参河志」下巻にある「二葉松」の単体は愛知県図書館にてダウンロードできます(→こちら)。

勿論「参河志」も(→こちら)。

 

この手のサイトは気まぐれで「いつ閉鎖、中止されるかわからない」という不安になった私は手元に置いておきたいと各ページのスクリーンショットにて保存しておきました。

そののち「参河志」を入手したのでしたが、まぁダウンロードと違いPC上でページを捲る必要がありませんのでそれはそれで適宜眺めることができますからヨシとしています。

 

画像は「二葉松」中の「勝手にしろ」(奥方)、「ハカ・テラ・シロ」のうち「城」について全掲載してみたところ。

現地には開削、改変によりかつてのそれらの存在を想像だにできない状態になっているところが多々あり、伝承のみで不詳のパターンもたくさん。

ただしそれらはその時代時代に我らのご先祖様たちが生きてきた証の数々ですね。それらの思いは無駄にするべきではナシ。

過去の全否定などできるわけもなく。

 

最後の画像がまた10個ばかり積載して持ち込んだ相良城の石垣。これで24個の受け入れとなりました。

体ガタガタ、昨日は左腕の関節がそれを持ち上げた時、ビシッと不快な音を立てていました。

まぁ、現状問題なし。右足親指の上にゴロンとやった時は卒倒しそうになりましたが。

尚、先般の「手の上ゴロリ」の件があってから、奥方のその仕事の手伝いはありません。

 

GWのお参りの方は少なくありませんでした。

それを外構に積んでいると「よくやるよ~」「腰に気を付けて」などなど「やれやれ」のため息交じりの声援が。

素人の野面積み(違う!!)はみっともなくまた、声援は照れくさい。

よって画像アップはできません。いずれまた・・・

 

厄介な「捨て去られた遺物」を場所を変えても積みなおして遺していくという私の気概です(市教育委員会了承済み)。

以前「砕石屋さんに引き取ってもらった」という例を知っていますので何としても「助けたい」という気持ちですね。

路盤材にしてしまうのはちょっとね・・・

 

尚、表題の「西三河 碧海 幡豆 加茂 額田  / 東三河 宝飯 八名 渥美 設楽」は三河のかつての郡名。

「二葉松」にしろ「参河志」にしろその郡別に掲載があります。

同じ三河でも西三河(碧海 幡豆 加茂 額田)が私の趣向であることは言うまでもないところです。