明治の長良川の河川改修で沈む 願證寺 川の中

横浜在住二人の件。

「奥の墓道」氏に3回目ワクチンの案内が届いたのが先週末。

続けて息子にそれが届いたのが今週月曜日のこと。

息子は住民票を移していませんので、その「殆ど同じ」は自治体の仕事の違いでしょう。

 

横浜では指定日が無いとのことで「いつでもどうぞ・・・」になっているようですが、指定医院に出向いての予約。

息子は3回目の副反応についてビビり、当地に帰って、また戻るという複雑は回避したいそう。「横浜で打ちたい」旨伝えてきました。

ということで接種券を横浜に転送しました。

20日の静岡県の感染者数は1018人のうち牧之原市が36人、御前崎市が15人。

一言「ぜんぜん減る気配ナシ」というか「多し」の感。

収束先取り施策から緩み気分も増幅しての結果(地域間移動頻繁)なのでしょうが、GWの野放図・・・さてどうなることか・・・

 

さて、昨日は伊勢長島の北、長良川の土手の下、聞光寺について記しましたが、その寺に私が遇えたきっかけは長良川の土手に上がったことから。

それは昨日も記しましたが本来の目的は旧願證寺の位置を大体の雰囲気だけでも・・・と「見に行った」のでした。

 

願證寺は戦国時代前半には伊勢はもとより美濃・尾張の三ヵ国の真宗寺院の主体となった寺、要はその三ヵ国の真宗門徒衆をまとめた寺です。

それは三河でいえば三河触頭三ヵ寺(本證寺、上宮寺、勝鬘寺)の

如く。ちなみに拙寺は「本證寺末」でした。

尚、三河一向一揆の永禄六年(1563)~七年にかけて当家初代は安土と遠州を行き来している時、寺としての体裁はできていません。また初代今井権七の三河一向一揆についてその動向、考え方についてはまったく伝わっていません。

のちに家康の恩恵を受けることになりますので「余計な歴史」を封じることは肝心だったかも知れません。

 

真宗門徒は縦社会(封建君主)を嫌い、ただひたすら手を合わせて敬礼する対象をあげれば阿弥陀如来のみ・・・といった宗旨ですので、そういった社会(縦)を確立を目標に掲げる者にとっては排除すべきグループになります。

縦といえば阿弥陀の教え(経・・・経糸たていと)ですから特に無茶難題を押し付け権威を上から振るおうとする「人間」には反発してきた歴史がありました。

 

その長島を中心に周辺三川流域の明治以前といえば現在の如くハッキリとその川の流れを指定できないくらい陸地に細かく入り乱れ、年によってその流れをコロコロ変えてしまうような不安定な地域でした。

よって古来からその地域では水害からの「守り」の住処、輪中の発達となったのですが、明治以降それを国の力で何とかしてもらおうという動きが起こります。

明治二十から木曽三川分流工事が始まりその結果水流はコントロールしやすく纏められて、たまたまその地にあった旧願證寺は長良川の底ということになったのでした。

 

その位置はグーグルマップにも記されているくらいハッキリしています。

ただしその位置をこの目で確認できるわけもなく、その雰囲気を味わうだけのことのみですが(場所はこちら)。

 

③は土手の上から見た長良川の反対側、長島の陸地部分。

白いドームが「輪中の郷 輪中ドーム」。

 

川底を作りながら土手を形成させたのでしょうが(掻揚)、物凄い大工事だったことを思います。