岡崎城 本丸南側 月見櫓跡から思う

3日連続雨で薄ら寒い一日でした。

朝方は一瞬の日差しがあったものの、午後は酷い降りになっていました。

 

さて、昨日は三河の中心が岡崎の如くのことを記しました。

それは松平が入ってからの事、あくまでも家康のインパクトの強さから端折って記しましたが古い時代に遡れば国府は今の豊川市になりますのでそれはあくまでも私のイメージということです。

 

三河という地(武士の時代)についておさらいします。

承久の乱(1221 後鳥羽上皇×北条義時)以降、幕府方の勝利によってその要衝地として足利氏を配したことからその時代がスタートします。

恩賞、一所懸命(多くの土地をゲットして懸命に守り子孫に継承・・・「家」主体)の始まりです。

三河守護職(足利義氏)はじめ各地頭職を手中に収めゆくゆくその一統が治めた地に分家してその地名を名乗っていきます。

 

ちなみに足利義氏の父の足利義兼は頼朝配下の御家人。

鎌倉で木曽義仲の息子義高を討ち取り、また平家追討の功から上総を知行地として与えられて上総介を名乗った人でした。

北条時政の娘の時子がその妻です。

そしてその息子(三男)、足利義氏も上総三郎が通称でした。

鎌倉に反旗、幕府を倒して室町幕府を立ち上げた足利尊氏が出る系でもあります。

 

信長が上総介を名乗ったのもその三河足利から出た今川への牽制という意味もあったのでしょう。

ちなみに知行地として「上総」をあずかるトップは「守かみ」(親王が国司を務める親王任国・・・他に常陸・上野)ではなく

No.2の「介すけ」というのが実質の国の掌握者。紛らわしいところです。

それでも信長がその「上総介」の名乗りをしたのは特にその語に威厳あるイメージがあったのでは・・・。

そもそも関東武者の名乗りでもありますからね。

 

足利一門が吉良、今川、一色、仁木、細川の地を領してその地名を冠に名乗ってきたのですがそれぞれが矢作川の流域で繁栄しました。

さらに室町期に入ってからも足利一門の領国支配の時間が尾張含めて(斯波氏)続きます。

 

そして戦国戦乱の下剋上期に突入すると在地の「守護代」が力をつけ既存足利一統の衰退もあって新興土豪勢力の台頭することになります。その一つの家が松平だったわけで。

 

三河・尾張を「要衝」と記しましたが、肥沃な平らかな暖地と入り組んだ河川、海産物に塩、海運・陸運の隆盛があったことは他の地に比して明らか。

戦国期に出現し、大河ドラマ化されるような歴史著名人は殆どがこの地域と駿遠に関係があった人ばかり、甲斐からは度々武田の侵攻を受けました。

 

ライバルたちとの喰うか喰われるか、騙し騙されの生き残りを賭けた群雄たちの戦いがあったことは言うまでもないことですが、私の趣向として真宗本願寺の教えがこの三河地区に浸透し、拡大していったその背景を確認することもありますね。

 

画像は豊川を差し置いて、岡崎の名所、岡崎城本丸南側を見た図になります。

月見櫓に天守など城郭建造物は明治初頭に打ち壊されています。天守はコンクリート製の復刻となります。

 

城内、石垣と堀だけでも十分楽しめます。

平日なら人も少なし。