昨日ブログでは小島蕉園に送られた大澤寺八勝(景)の「一」について叔父の見解含めて記しましたが、後から叔父より「そもそも書き手が違った」と。
蕉園が拙寺のために記した歌の八首のうちの「一」でしたが、それは相良史料館に蕉園直筆の軸として残っています。
そして昨日記した蕉園の八つの歌といえば拙寺の十代釋祐賢が記したものであり要は蕉園作の転記。
よって微妙な変更もアリということで。
祐賢の方で蕉園の文字を彼なりの感覚で変更を加えたということかも知れません。
並べて比較してみると
①大澤寺の掛軸
小嶌八詠書此
「壓却三千界摩天書彩霞惣々神代雪仰看日東花」
②相良資料館所蔵掛軸
「壓却三千界摩天出彩霞悠々神代雪仰看日東花」
富士晴雪大澤寺八勝之一蕉園彝
でした。
①が祐賢、②が蕉園ですね。
昨日記した「書」と「出」はそもそもこの段階で変更がありました。また「惣々」と「悠々」からの変化も。
これらは祐賢の主張ということでしょう。
あの時代の文人は漢文漢詩での交流当たり前の時代。
一字一字の文字の持つ深い意味を考察しつつ内面感情を表現することに長けていますので文字転記の単純ミスはまずあり得ないというところを付け加えておきます。
さて、岡崎城。
以前ブログでは1度だけ記していたと思います。
ただし城内遺構についてはまったくスルーしていました。
先日、浄瑠璃姫五輪塔やら持仏堂曲輪やら浄瑠璃寺について記したこともありその城域へ。
まずは復元大手門からです。
現地にはその紹介がありますが、やはりこちらとは別の位置にあったことがわかります。
天守等城郭建造物への損壊ダメージというものの主たるものといえばやはり全国で進められた明治維新以降の解体払下げ。
二束三文で民間に売り払われたものでした。
各寺院の檀家有徳人のうち、「買い取って寺に寄進したい」などいう例も中にはあって(山門など)僅かにその名残をうかがうことはできますが大抵はその流れの中で散逸、消滅する憂き目となりました。
文化財に対して見向きもしなかった明治政府の政策(明治六年廃城令)は廃仏毀釈と同様、大きな日本文化の棄損と繋がってしまいました。
名も無き各城砦は土地改変によっても失われていったことは言うまでもないことでした。
途中改変があったとは思いますが岡崎城天守は元和三年(1617)の本多康紀の代に三層三階地下式の天守閣が東海道に威容を誇っていたよう。それを考えると本当に惜しいことをしたものだと思います。
よって現在の天守は昭和34年に再建されたものです。
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