先日、史跡研究会の皆さんとお会いした時「今度どうする?・・・」と顔を見合わせていました。
昨日開催された小和田先生の講演会への参加について、オミクロン変異が蔓延りつつある今、「室内はさすがにヤバい」というのが一同の意見。
皆さんは「三回目」については10日以上前に済ましたといいますが、私はまだですし。
しっかりと抵抗ができるまでに2週間というタイムラグがありますから不安が残るようです。
ということで我々は参加を見送りました。
空調は万全とはいいながら長時間の閉鎖空間に大勢の人たちと一緒にいることはムリですね。
ということで私は前日に「申し訳ない」のキャンセルの電話をさせていただきました。
毎度拙ブログに画像の提供をしてもらっている「女墓場」女史は医療従事者ですが、当初は「ワクチン打たない派」で1回目の接種から一般より遅れていて2回目が昨年12月。よって今年の6月が3回目の予定となります。
5月の拙寺バスツアーへの参加を希望していましたが、3度目を打っていないとなるとやはりヤバい・・・
まぁそもそもその予定での催行は私は9割方不可能と考えています。また順延になるでしょう。
関係各社大変で申し訳ないことですが、無理なものはムリですね。どなたも募集に応じてくれるはずもなく。
皆さんビビっています。
さて、先般打敷の墨書について「法然上人の回忌」と判断された
記述に異論を記しました。
法然さんではなく親鸞さんの「五百五十回忌」(文化八1811年)というのが私の主張です。
その件、真宗寺院ならばどなたもそれを合点するところかと。
拙寺に遺る書面の中から本山の五百五十回忌の版図が出てきました。細かい仕事であることがわかりますが、着目点はその境内に夥しく立っている幡の様。
こちちらの幡・・・<ばん>は近頃では大河ドラマを視聴していると館の中に立っている様子が目につきますが、これはそもそもが仏教儀礼の旗印ですね。
インド発祥とのことで日本書紀の記述にも出てくる代物。
中国語の訳語で「幡」と名づけられ平安期の「和名類聚鈔」で初めて「波太」(はた)と。要は「旗」。
仏殿、堂内から境内に掛けたり吊るしたり。
幡は通常は染織生地によるものですから痛みが早くキレやすい。
私も波さんの打敷を皆さんに見ていただくために吊るしたことがありましたが、奥方がその件思い出すたびに怒られています。
その傷みやすさから金物細工として作られ本尊荘厳のお飾りとして掛けられるようになったのが天蓋、瓔珞でしょうか。
④は内側サイドから見た御影堂門。
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