母が馬になった清水の観音さんの夢告 馬塚 唯念寺

朝一番に吉田のドコモショップに。

一昨日の失敗(予約しない飛び込み)の通り、今度奥方が予約していたのがその開店時間の10時でした。

私が同行するのは「家族契約の主体だから」(奥方)とのことでしたが結論から言ってまったくその意味がありませんでした。

あの契約やら端末のデータ移動やらの時間は苦痛以外の何物でもありませんので私は外でぶらぶら。

気温も高めで好天だったことは有難いことでした。

結局終了したのがお昼近くです。

お店はコロナ対応の完全予約制にしていますが、従業員の数にも限りがありますから仕方ないことでしょうね。土日など客がどっと訪れたら無茶苦茶になりそう。

 

昨晩はBS「英雄たちの選択」は信長VS本願寺ということで視聴しました(〜歴史を変えた11年戦争〜再2/2(水)午前8時~)。

そのあとは「歴史探偵」、村上海賊そして雑賀衆でした。

NHKは本願寺ネタには敬遠傾向にあるというニュアンスを感じている私ですがやはり信長の抵抗勢力との戦闘について各ある中、「本願寺」にスポットを当てるのは初めてとのことでした。

 

千田氏ほか出演者の皆さんは城郭としての石山本願寺について絶賛。ひょっとして信長も秀吉もそれを真似しようとしていたのでは・・・などとの意見も。

まぁ対信長戦で11年も闘い続けた例はありませんからね。

戦闘中に信長が怪我を負った(足への銃創・・・信長公記)のも「ここだけ」とその困難さを表現していましたね。

 

私が「ほぉ・・・」と思ったのは第二次木津川口戦での例の鉄甲船の件。

毛利水軍筆頭の村上水軍にボロ負けさせられたその前の第一次木津川口の戦いから学んだ信長が九鬼水軍らに仕立てさせたというもの(大型船7)ですが実は書物の記述としてその手の鉄板を巡らせたのイメージのものは多聞院日記(「鉄の船也、テツハウトヲ(通)ラヌ用意、事々しき儀也」)しかないといいますね。基本的に人聞きの話です。

火矢、鉄砲そしてほうろく玉からの攻撃を防御するための鎧船の如くの鉄素材の多少は少なからずあったにしろ、対船で勝利するためのアイテムとしては実際にその船に乗ったという宣教師オルガンティーノの記述こそ信頼性において長けていると思います。

それが大砲三門と長銃の多数。

火力の大きい大砲と鉄砲でも長距離砲、大筒の類が想像できますね。それなら操船技術のある村上水軍であっても敵いません。

それに合力した雑賀衆の鉄砲の最良の射程は「七八間」(30m)といいますので長距離砲の勝負では歯が立ちません(もともと火縄銃の射程は80m)。

 

 

さて、先日来記している四十九院唯念寺。

あちらのお寺には墓地は今風の墓苑タイプ。

寺とは離れた場所にそれはあるようですが、一基だけ本堂の裏庭に不思議な伝承を持つ墓が建っています。

それが「近江名所図絵」にあるという「馬塚、堂後にあり、弘長年中、洛の老女、馬に生まるるよし、清水の観音の告あれば、其娘 かの馬を慕いしが 其馬此所にて葬りぬ これによりて此寺に蔵すといふ」。

 

寺伝由来では

弘長の頃(1261-1264)、西国の人、牝馬を役して上洛し、ついで越後国に向かった。たまたま時を同じくして京洛の某女、亡き母を慕うあまり、清水寺に参籠していたところ、満願の日に観世音菩薩の夢告を受けた。

亡き母は右の牝馬なることを知り急いでその馬を追った。

ついに近江四十九院村の入口(のちのカンヘヰ関所)で追いついた。喜びも束の間、馬は俄かに病を受けて急死、こちらの観音堂の脇に葬ったというものです(現在は本堂の裏)。

 

「夢告」というと殆ど眉唾に感ずるところと当流御開祖の六角堂での夢告があって重くみるべきやら、一笑に付していいのかよくわからないところがありますが、夢というものはそもそも自己の「そうあったら」という深層心理が動くものかも知れません。その手の夢を見たならばそれを信じて追いかけていくのも一つの解決手段。まぁ追いかけられないほどの荒唐無稽というのも夢というものですが。

 

馬に生を受けた母親は目の前で息絶え、今生の別れとという現実を知ったということはそれはそれでその人が得たものとして価値はあったということで・・・。

ちなみに弘長といえばその弘長二年(1262)が親鸞さんが亡くなった年ですね。