蜂須賀小六と日吉丸(秀吉)12歳 創作矢作橋

 

本日午前中は昨日より温かく、風は少々アリの感。

残っていたドラム缶を片づけました。

ドラム缶を二つ、これまでいろいろな場所に置いてきましたが、ここのところは一番安直な本堂脇の庫裏の旧玄関前に置いていました。

しかしどう考えてもそれは見苦しすぎるの一言。

 

今、外駐車場の車庫の脇に小さな小屋でも作ってドラム缶置き場を作ろうか検討中。

「物置小屋ばかり・・・」と奥方が口をはさんできましたが。

現状消耗が激しくてボロボロに近く、辛うじて形状を保っているようなところ、どちらにしろ更新時期が近いこともありますが。外置きは劣化を早めますが、まぁ致し方なし。

 

年が明けてから4~5件ほど3月前後の法事開催について日時の打診がありました。

毎度「本堂は寒いので・・・」(日をあとにズラすのも可)とは思うもののその件当然に承知のうえのことでしょう。

今回の問題はオミクロンの感染爆発が「2月ころ」といった予想があることとその後の状況がよくわからないこと。

 

これもわからないなりにレッツゴーしてしまう、いつもの私ですが、お相手があることで少々慎重になります。

よって回答は「もっと近くなってからでいいですよ~」。

その中で特に厳しい独自規制をとる家があります。

昨年の葬儀の際は首都圏在住の子らの帰郷、参拝について参加を辞退させていました。

49日の納骨も盂蘭盆も故人の奥さんと当地在住の娘さんと2人きりの法要となっていましたがこのまま感染者が増えると一周忌もまたそれと同じ寂しい法要開催となりそうです

勿論、法要後のお斎は省略のパターン。

数日前にお会いした宴会場を持つ料理屋さんの大女将は「早いところコロナが収まってもらわないと・・・」。

お斎のない法要ばかりでその業界もまた青息吐息の様です。

 

さて昨日の矢作川橋

その西側上り車線の入口に比較的新し気で妙な石造が建っています。

その名が「出合之像」。

盗賊一味の頭だった蜂須賀小六と12歳の日吉丸(秀吉)の出会をテーマにしたものですが、完璧な作り話。

 

そもそも蜂須賀小六が野盗だったという件、寛永三年(1626)以後に出された「太閤記」の中に記された演出だそう。

そして室町期のどの紀行文を見てもその川に橋がなく渡し船が用いられていて、橋が架かったのは江戸に入っての元禄年間で秀吉12歳の時代に「その橋のたもとで」などあり得ないお話。

「絵本太閤記」寛政九年(1797)の創作とのこと。

京都五条橋の出会いの二番煎じの感。その話も真偽のほど別として矢作橋の話は創作、史実とかけ離れています。