小塔院跡 五重小塔と浄瑠璃寺三重塔の件 大峰山碑

寒い一日でしたが風がなく外仕事の継続。

すると雨が降りだして「やめた やめた~」などと吐き捨てて庫裏に入ってぬくぬくしていれば不思議や不思議、午後には雨はやんで日が出ているほどの変わりよう。

 

再びツナギに着替えてあれこれ些末な仕事。境内に滞留した一日でした。

檀家さんが掘りこまれて黒い土が露わになった場所を見て「どんな風になるのか楽しみだ」などと声をかけられましたが、ただの車置き場。楽しみだなどと言われると困ってしまいます。

土が流れて見苦しくならないよう上部に畝用の土留め板を設置するなど念入りに少しずつ進めていますが。

 

あの土留め用のプレートはよくできています。

サイズも各あってまた複数を連ねて長く連結できるようになっていますので今後墓地西側の土塁下の浸食箇所にそれらを並べて土砂を補充しようと考えています。

 

またある檀家さんから、「来年のバス遠足は是非に」との声。

どうかキャンセルにしないで予定通り催行してもらいたいということですが、その件に関しては私が勝手に決めていると思われたら困りますね。

あくまでも将来の事はわからない。コロナ次第ですね。

 

その遠足はこれまで3度の中止順延を繰り返していますがその遠足の納骨以後の二日目のお遊びの部のテーマが「南山城の南無阿弥陀仏」です。

岩船寺から野山を浄瑠璃寺まで歩いてその後に円成寺を見て帰路に就くというものですが、どちらも苑池を前に阿弥陀堂のある浄土を意識した古刹です。

 

先日は浄瑠璃寺の三重塔を紹介する番組を視聴しましたがあの平安期の塔には心柱も無ければ四天柱も無いという構造だといいます。外見からは四隅に簡単な柱のようなものが見られますがそれは四天柱とは違うよう。

 

塔といえば心柱というのが常と考えていましたから驚きでした。私ども家族、父母も機は違うにしろその寺に参っていますが(私など5~6度くらい)その塔の中には入っていませんでした。

 

しかしそのような造りの塔が、他とは小さ目とはいうものの立ち続けていることの奇特に感じ入るばかりです。

 

さて、奈良町の元興寺は厳密に現状3つに分かれていることを記しました。

そのうちの小塔院跡に。

やはり先日記した庚申堂のスグ先に入口がありました。

呼び鈴のある小さな門があってあたかもどちらかの家の路地口の様。一瞬躊躇しましたがそのまま失礼、進入しました。

 

するとお堂があって手前には大峰山三十三度の記念碑。

仏教寺院に歴史的には明治前後と決して古いものではない修験道のマスター成就の記念です。

私的にはちょっとね・・・の感。

三十三という回数の意味も分かりません。私達で言えば「四十八」(弥陀の四十八願)という数字が思い浮かびますが・・・

 

尚、私ども浄土系にも「行」の回数の概念はありました。

と言っても口称念仏1回か10回か・・・の如くですがね。

本山に「何回行った」で記念碑は建てません。

それはそれで人によっては達成感というものがあるということでしょう。

 

また、元興寺の宝物館に鎮座する国宝指定の高さ、5.5mの奈良時代創建の五重小塔(こちらのサイト参照)はもともとこちらにあったというのが定説です。

小さいながら奈良時代の「塔」ですが平安、鎌倉、江戸期に修理の手は加わっているようです。

経年室内の保存のためまるでマニアの手による模型の如く。

各国宝展等に出張って人々の目に触れられている五重塔ですね。

 

①②③画像は入って来た側の逆側の参道。そこから退出。

その入口の近くに崩壊した築地塀の跡が。

指定史跡であっても管理は行き届かないものです。