今年も「お取越し」は無理ですね。
当流一番のイベント、報恩講は開催時間を増やすなどして分散して本堂での開催になりますが、そのプレ法要、ご自宅仏間でのひと時は昨年同様中止になります。
昨日も記した通り、「一番怪しい」のは私であって仏間という密空間にノー天気で参ってウィルスをまき散らすことはできませんからね。
私としてもその辺りの件十分に注意はしているつもりですが完璧など有り得ません。
世間の相当数の感染者減少の値は目にしていますがあの未知なる生体?について各専門家の推測もままならず、ましてや政治屋どもの楽観などまったくアテになりません。
9月解除の政治の尻押し、お調子に乗って踊らされ地獄の苦しみを味わうのは御免です。
それら真に受けて浮かれていれば「ピシっとヤラレル」ことは必定・・・という警戒感まだまだ。
慎重に、うまくいったらまた来年ということで。
しかしながら人間の思うようにそうカンタンにいかないということも承知しています。
今節第5波の強烈は全国民が度肝を抜かされたわけですが、今のコロナ最盛期の1/20とまで下降した感染者数の不思議をただ「幸運だった」「神風が吹いた」的楽観で「終息」との早とちりを醸し出すのは愚の骨頂。
新コロ終息は有難いことですがやはり「第6波のその時」への対応準備はしっかりお願いしたいところですね。
とかく「GO TO」はじめ「コロナ後」のお楽しみの方に先走って旗を振るというのはね。
とにかく検査能力の充実とゲノム解析によって「今のコロナ株」の変異状況を把握しつつ感染者をどうするか、収容と治療の段どりを整えて、次は間違っても国民を「自宅療養」の体のいい野垂れ死をさせないでいただきたい。
今回の「謎の収束」についてはウィルス変異の「エラー カタストロフ」説が言われていますが、これはウィルスそのものが自身変異エラーによって自壊してしまうというもの。
時間を追って各波(幹)が立ち上がっては消えていますがそれらはウィルスが勝手に自壊しただけであって人流抑制だとかお流行りの「宣言」のお陰ではナイというというころがミソですね。ワクチン接種もイスラエルのブレークスルーを見ている通り安心などできません。
ということで第6波の恐怖はこの冬の最大のテーマであってその立ち上がりの片棒を担がないために「お取越し」には行けないのです。
さて、先日記した作手善福寺の仁王門を潜って先に進みます。
大木の間の参道を上り詰めた観音堂周辺には石仏たちに新しめの観音さんがお出迎えしてくれます。尚、この堂の脇に文珠山城への登り口があるのですが、そちらをこのお寺の奥の院と呼んでいたとのこと。
特にあのデキすぎた石塔の存在に目が留まるのは当然の流れです。
しかしあの気の利いたスタイルは古き時代のそれとは少しばかり異にします。凝り過ぎているというか・・・江戸期のもののようですね。
文珠山城の石仏もしかり、江戸~明治期に揃えられたもののようですが、歴史ある寺院の割に石仏に古いものが見えないのは如何に。
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