塞之神城から文珠山城へ ブナ大木のお出迎え

イイ加減テキトー書いてるなら「ヤメロ!!」と、奥方から厳しいお達しがありました。

日々ブログが成り気、いい加減で誤字脱字が酷すぎるとのご指摘でした。

「見苦しい・・・」とのことですが、基本「当方知ったこっちゃあない・・・」ですね。失礼・・・

「イイ加減」も「見苦しい」も今始まったことではありませんし。

まぁ最近は見直しチェックもせずにただの書きっぱなしというのがイケなかったよう。少々の反省はあります。

所詮変わることはないでしょうが・・・そういう開き直りはいよいよジジイになったということ。

その手の指摘と反省の弁も時折記していましたね。繰り返しでお頭の硬直化は進んでいます。

 

昨日記した磯子郵便局のクラスター発生による機能不全について昨日朝から「再開の目処が立たない」ということから引き続き奥方が送ったクリックポストは「奥の墓道」氏の元に届いていないよう。

前代未聞のことですね。

そちらの方が余程見苦しいことだと思うのですが。

 

このところのトーキョーの感染者は減少傾向にあるものの、これまでの「波」の収束の際と同様に「ウィズコロナ」だとか再開や緩和などの声が上がりだしていて、気持ちとしては「また繰り返すのかよ・・・」ですね。国のお頭も同じまま。

 

横浜の磯子郵便局のクラスターもそうでしたがこちら静岡県は「高い水準で下げ止まっている」という表現がありました。

それを象徴する事案がスズキ相良工場からのニュース。

14日からの三日間で79人(1700人のうち)のコロナ感染が判明して車体組み立て工場の稼働が止まったといいます。

 

その79人が家庭に帰って家族に広げれば再びあっという間の元の木阿弥でしょう。

相良にはそちらで仕事をされている方、たくさんいます。

 

昨日は神奈川県在住の方と話しましたがその方は7月末に「娘が感染した」と。

やはり入院はできるはずもなく、自宅療養となったそうですが、その夫も子供も同居している家庭内隔離であったため相当の困難が伴ったよう。

幸いにして家族への感染はなかったようですが、保健所からのケアはお印程度で、ただ耐え忍ぶのみの時間だったといいます。

 

治療薬の投与はなく解熱剤や抗生物質などの対症療法のみで、自力の免疫力で回復したようなもの。

その母親は不安と心労、政治への不信が積み重なってテレビで能書きを垂れる政治屋どもへ「恨み骨髄に・・・」だったそう。

自身や縁者がコロナにかかったとき、普段は他人事として許容できたことなどであっても、いよいよ不満が重なっていくのでしょうね。

 

一部の人たちにしか回らないのかカクテル療法、出し惜しみ甚だしいと感じるばかり。

「軽症です」の判断から自宅療養となり数日後に急変して亡くなる人たちが多くいらっしゃいましたからね。

 

さて、先日は奥平家が武田の介入を受けた頃の城塞、古宮城に塞之神城について記しましたがその塞之神城から尾根伝い、あの時 

は冬枯れの歩きやすい林の中でしたが、少々行けば文殊山城に到達します。

いつもの「城郭大系」の記述も本編での扱いではなくさらりと記されるのみ・・・文献への登場が少ないということでしょう。

 

別名「一夜城」の名があります。

そもそもこの城は武田方からの築城の要求があって奥平の手で築城したといわれています。当初奥平はその要求にヤル気を見せないでいたところ、それにキレかかった武田に対して大慌てで(一夜で)仕上げた・・・という謂れの如く(場所はこちら)。

 

両城とも奥平の本城、亀山城の向い側の山の尾根に連なっていて、どちらにしろ武田方から監視・威圧される城となることは必定。

奥平(あなたたち)の城だから作りなさい・・・と言われてもそうは気分が乗らない場所であることは一目瞭然です。

 

塞之神城からの進路、文殊山城の曲輪入口にお出迎えいただけるのがブナの大木です。ここまで大きなブナとなると樹齢は・・・ひょっとしてこの城と同じくらい?・・・などと考えたところ。

作手には大木がつきものですね。

 

②は途中で出会った鳥居と石龕。

あちらを歩くには冬場がいいですね。土塁や曲輪らしき削平地の跡はストレスなく判別できます。