大永(室町)期ながら 板碑と石灯籠 当尾金蔵院

昨日の静岡の感染者は429人で7人の死亡。一日に7人が亡くなるというのは過去最高です。トーキョーは8月のコロナ死者は200人といいますが、そのペースで行くとしたら静岡もかなりヤバイ雰囲気。

 

「人がいないからしょうがない」(昨日)は自宅療養の軽症者へのケアが不足して見殺しというか放置死させる理由として言われていることです。

その件、原因を考えれば色々ありますがそもそも検査数が少なくて感染者の発見が遅れるということ。

感染者の発見が遅れればより感染者を増やすことになりますからね。

 

検査数が少ないの当初から国の楽観からデータを独り占めにしたい(国立感染症研究所)という意図があってかの嫌らしさもあ

りますが検査する側そのものの人員の不足があったわけで・・・。

 

その人員不足は「行財政改革」なる大鉈の旗振りの的となったからというのは言われてきた通り。

要は政治が「その時」のことを「軽度に思量」していた結果であって胡坐をかいていた怠慢なのですよ。資源を他の何かに向けたかったことはありますが。

 

どちらにでもあるような資料を引っ張り出せばその一番に幅を利かせている「感染研」そのものの「人不足」は有名な話。

10年ほど前から研究者は300人以上いてものを200人台後半まで研究費予算とともに削減されたうえにそのうちの常勤の研究員の数はたったの3割しかいないといいます。

アメリカ疾病対策センター(CDC)と比べればひどくお粗末な数字で人の数はといえばそちらの1/40。予算となると1/1000といいます。

そこまで絞ればワクチンでも何でも遅れるワケです。

 

そのうえ保健所そのものの間引き。

ここ30年でほとんど半減されていますね。元にかえれば「人口10万人に1カ所」というのがその設置理念でしたが・・・

 

私は子供時代小田原の南町、住所地を語るに地元では「保健所の通り」(西海子-さいかち-通り)で通ったものでしたが、その保健所も知らぬうちになくなっていました。検診等、母に連れられて頻繁にそちらに向かいましたが小学校の夏休みのラジオ体操など親しみある、地元に密接に関わっていた場所でした。

 

この保健所といえば地方の公衆衛生の要となりますが一言で感染症対策の仕切り役でもあるわけで・・・。

「感染が疑われる場合 まず最寄りの保健所へ」(厚労省)でしたね。

そこで「渡航歴(それら濃厚接触)があり4日以上37.5度以上なるくくりの中で「入院を要する肺炎の疑い」ではじめて検査するかどうか決められたことが思い出されます。

それ以外の軽症者は機械的に「自宅療養」となっていました。

まぁ今もそれに変わりはありませんが。

 

当初からそれほどのナンセンスはないとは誰もが思ったものでしたね。どう考えてもそのシバリに耐えきれる者は無く苦しんだ挙句、死に至るケースが散々に出たワケです。

これは保健所がパンクすることがハナからわかっていたからで、できるだけ改革のもとに削減された部署を「守ってやりたい」の国の親心でしょう。

誰からその役人大変の状況を守るかといえば国民からです。

本来ある国民への「公衆衛生の向上及び増進」を担う公的機関としての大切なお仕事が忘れ去られたということに他なりませんね。

 

今、大阪の感染者増についてその増加が特筆的になっていますが、大阪自体も一気呵成にその保健衛生の切り札的存在を「無用のもの」として減らしてきたといいますね。よって今の状況はその咎として受け入れなくてはなりません。

 

その保健所について、牧之原市のものはというと「静岡県中部保健所榛原分庁舎」なる正式名称で、国からは相当適当にあしらわれている感が漂っています。本所は藤枝ということですね。

保健所の業務の補填は「各自治体にまかせる」ことになっているようですが、この人員不足の時期、市役所の対応は違う部署からの応援で対応しているよう。

 

先日、その他部課からの応援に関わる人の愚痴を聞きましたが、自分の仕事ができないことはもとより、超繁忙で日々疲労蓄積の様。

「何がそんなに忙しいか」といえば、「濃厚接触者の追跡と洗い出し」であるとのこと。

 

「まだそんなことやってんだ~」と内心。

がっかりするような仕事を言いつけられて気の毒なことです。

自宅療養者への連絡を打ち切りした杉並の保健所の件もありましたがそれを聞いて「それじゃあな~」とも思うばかり。

区は「人員を補充します」とその改善策を言っていましたが、「どうせバイトの電話番」(失礼!!)と思うのは私だけ? 

「付け焼刃」的「やった感」を思うばかりで。

電話さえ出ていれば「保健所と連絡が付かない」のクレームはありませんからね。せめて「電話応対・・・」といったところで。

 

渡された自宅療養者向け応対マニュアルに記されてある、通り一遍の返答をしておしまいのような。

専門家はまず電話に出ないと思っていいのでは・・・

保健所の指示待ちは時間のムダではありますが、それを一縷の望みで待ちながら自宅で亡くなるというのは空しいばかり。

 

よって今でも「片っ端から検査」するしかないような気がするのですがね。

野戦病院に街角無料検査場を設置するのはそれほどコストが張るのでしょうか。

トータルに考えればつまらん追跡業務(空気感染のデルタにのこれまでの濃厚接触者のくくりでは追いつけない)に時間と経費をかけるより余程効率的な気がしますし何よりそれが市民の命を守ることができる最後の手段では・・・。

もう1年以上もその件を指摘されていますが国は動かない。

 

元に戻りますが「行財政改革」といいながら「ムダ(アベ)のマスク」をバラ撒く発想についての疑問が浮かんでくるばかり。

すべてがマトモではなかったいろいろの咎を今国民が背負いこんでいるのです。

 

さて、当尾の金蔵院の続き。

昨日は石塔パーツの無理くり積み重ねについて記しましたが、こればっかしは単体当たり前「なかなか」といえる残存状態と思えたのが名号板碑です。大永六(1526)がうかがえます。

やはりこちらの境内に古くからあったものか、どちらからか持ち込まれたものかわかりませんが、思わず手を合わせてしまいます。

 

近くの石灯籠はやはりパーツ積み重ねの様が。

よく見ると灯籠なのに火袋がナイ。

その部分はおそらく宝篋印塔の塔身でしょうか。

それでもカタチとして①の石灯籠の姿は悪くないような。

何かの平たい踏み石、台座の類を組み合わせているようにも思えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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コメント: 2
  • #1

    がつお (金曜日, 03 9月 2021 10:13)

    東京都のモニタリング会議(毎週木曜開催)の資料を見ると人工呼吸器装着者(都の基準での重症者)で亡くなった人が先週は35人、今週は30人だそうです
    でも重症者数が減らないということはそれだけ待機組が多いということなのでしょうね

    役所の体制に関してはいろいろとありますが、たまに来る有事のために保有している無駄を住民が平時にどれだけ許容できるかでしょうね
    政治家がそこを削って経費削減することで仕事をしていると見せつけて、それを住民が評価してしまったのが今の現状をうんでいるともいえます
    本当の無駄は別のところにあるんですけどね
    いつの世も人は失って初めてその大切さ、ありがたさに気が付くんでしょうね
    それを取り繕おうとするのでおかしな政策が実行されてしまうという
    首を絞めたのは自分自身ということですね

  • #2

    今井一光 (金曜日, 03 9月 2021 19:09)

    ありがとうございます。
    「人は失って初めてその大切さ、ありがたさに気が付く」まさにそれこそが
    我ら人間の気づきの原点ですね。
    いわゆる「あとの祭り」か「アリとキリギリス」的「我が身の」ありさま。
    危機的状況を口で言うだけでお願いレベルで無策のお偉い方々。
    お国の方はガースーの首の据替で何とか乗り切ろうとする姿が見えてお祭り状態。
    本当のところは各自宅療養者に迫る死からの解放だと思うところ。
    変な国だこと。