朝からテレビに張り付きっぱなし。
自宅療養者が救急車に乗ったはいいが、受け入れ病院が見つからず車は道路上に待機して動けないという景色は東京では当たり前のように見られるようですね。
医師が意識が残る重症患者に向かって「このままでは死にます」と言いながらも患者の「喉の渇き」の主張と「自宅へ帰りたい」の要望で動かない救急車から再び自宅に戻るといったシーンはまさに衝撃的でした。あり得ないことですから。
その方は翌日になってようやく病院に搬送されることができたとのことですがそちらでこと切れたとのことでした。
それは東京のお話でしたが医師は近県の病院にも電話をかけまくっていました。
特に神奈川県内の病院の応対「東京の方は受け入れられない」というのもショッキングな言葉。
まず通常で言えば病院の受け入れに関して多少の遠近はあってもどこかしら決まっていくものですが、まさかの返答の言。
その「トーキョーは・・・」に穿った感覚かも知れませんが「トーキョーのことはトーキョーで」の感染者配給元の責任への恨み辛みのようにも聞こえたところです。
感染爆発と感染伝播の咎は・・・と考えれば誰がどう見ても「それ」しかね。
まぁ神奈川県の感染者数は現状トーキョーに匹敵していて、もはや自分のところだけで精いっぱいでしょうから。
そんな中、横浜の息子は昨朝7時に家を出てそのトーキョーで催される葬儀式に出向いていました。
「若くなければできねぇな・・・」と奥方に伝えるも「コロナ感染のリスクは?・・・」と。まったくその通り。
あの地(陽性者発現率20%の)で活発に動くということは毎日サイコロバクチかロシアンルーレットの様を思います。
それではきっといつかはヤラれます。今のところただ運がイイだけ。
それに20代のワクチン接種はまだまだ後から・・・ですからね。
感染後に「見殺し」にされるのはわかっているだけにその感染からの生還もサイコロの出目次第。
昨日の静岡は545人で4件のクラスターがあったそう。
御殿場のそれは五輪関係の人たちだといいますよ。あのノー天気ですからね。
さて昨日は夜8時からNHK BSの「特攻 知られざる真実」「誠隊 最期の1か月」の再放送を視聴しました。
昨日も記しましたが、76年前の4月に米軍は沖縄へ上陸。
その際、強烈な艦砲射撃(「鉄の暴風」)を浴びせるのですが沖縄に集結したそのアメリカの艦船を迎撃すべく日本本土(九州)から飛行機が飛び立っていきます。それがいわゆる特攻機。
その特攻で陸海2000機、3000人の若者が亡くなったといいます。
それら特攻による唯一の証拠、遺構であるというアメリカ海軍の掃海駆逐艦エモンズが沖縄の今帰仁の沖にある古宇利島近くに沈んでいてその調査記録がなされたのでした。
アメリカ側の資料と水深40メートルに横たわる船の現地調査から作られた3D画像。海底の様子とシミュレーション画像は圧巻でした。
あの年の4月6日と言いますから米軍沖縄上陸の6日後の夕刻、
一機目が右舷船尾に突っ込んでいました。
船が搭載している爆雷が誘爆して航行不能となったその2分後に 2機目が右舷から続けざまに、3機目が左舷からブリッジに、続けざまに4機目、5機目と計5機が突っ込んだとのこと。それを現場の船の損傷状況から確認。
この戦闘でエモンズは乗員60名が戦死し、77名が負傷したとのこと。
翌日、船はこの海に沈没処分となりました。
エモンズの当時の乗組員でおそらく最後の証言者であろうという97歳の方のその時の体験談。
特攻機の搭乗者の表情がわかるほどの近さと船に残ったその残骸と遺体を見て「人生これからだという若者がカミカゼの特攻機に乗るなんて・・・私は海軍を去りました」という件、生き残った米軍兵士のたくさんの人々に大きな心の傷を残したことを推いました。
その方の証言にもありましたがエモンズ砲塔の主砲の角度から水平方向からの特攻機が海面すれすれ(「15フィートもない」~1フィート約30㎝)の水平で突っ込んでいた様子がわかるとのこと・・・まったく水平でした。
エモンズの海底近くにあった戦闘機ではない旧型の、足が出っぱなしのタイプの(格納されない)偵察機(「九八直協」)の残骸から調査が進みました。
その時、その機種は全27機での出撃、特攻のために出発したそうですがアメリカ軍の資料では奄美上空だけでその14機が撃墜、沖縄上空、敵の艦船に近づけた飛行機はごく稀だったことがわかります。
機銃もなくグラマン6~10機に囲まれて逃げ回る鈍足偵察機の末路を見たという証言もありました。犬死のさらなる犬死にもはや美談は感じませんし、逆に真実を理解しなくては亡くなった若者たちへの冒涜に繋がるでしょう。
今年になって初めて知りましたが「チョコレートにヒロポン」という記事を見ました。
それは特攻隊員の搭乗前に水杯と一緒に「見送るだけの上官」から配られたのではないでしょうか。
「祖国に命をささげた美談のように語られるが、実際には覚醒剤による高揚感に満ちないと敵艦には突入できなかった」という証言がありました。
私どもは坊さんとして人の命の「無常」について語ることは多いものの国による「非常」そして「非情」については理解を超えるものがあります。
それは勿論「常業」ではありませんので「非業」となりますが。それも人災のくくりであって国家が国民に非業を求めるなんて・・・愕然です。
画像は先日記した上御霊神社の境内の碑です。
畠山家の家督争いが発端というのがその大乱のきっかけとはいうもののその構造はそれほどカンタンではなかったワケで・・・
大乱の「発端」といわれるその同族間の争いは畠山政長と義就の御両人。
畠山義就の「義」も畠山政長の「政」も将軍義政からの偏諱ですね。
ただし義就は庶子(通説遊女の子)といわれますが外見からすれ
ばどう見ても「義」か「政」の偏諱では「義」を授かった方が
上でしょう。
こればっかりは、ぐうの音も出ない厳然たる優位性があって当初一旦は畠山の家督は畠山義就が継いだのでした。
ところが経緯あって将軍義政により彼は失脚させられます。
そこで政長にお鉢が回ってきて「政」の字を頂いて管領にまでなったというわけですね。
まぁ足利義政のワケわからない気まぐれというか情勢変化から今度は政長と義就を再び入れ替えるという無茶さ加減。
納得のいかない政長がこの「花の御所」の目と鼻の先、足利家ゆかりの社であるこちらに布陣したというのがその戦いの始まり。
「家督相続」の身内の争いがこの大戦乱のも一つのテーマでもありました。
超有名な神社仏閣の現在の人の流れに関してはきっと少ないはずでしょう。こちらときたらゆっくりのんびりは「常時」です。
不毛の戦乱とはいえ少なからず理解ができないわけでもない戦いというものが応仁の乱。
またそして「人と人」との闘いでした。
特攻機による自爆攻撃は現在全世界の自爆系の戦争の悪しき先例となってしまったのですがそれは確固とした日本の恥の歴史であることは違いないところ。
バクダンを抱えて敵に突っ込むなどはいかにも人命軽視の国の思想です。
その人命軽視は76年経っても解消していなかったのでした。
コロナは色々な事を教えてくれます。
ただし自身がその苦しみに喘ぐことだけは避けたいものです。それぞれが感染しないよう努力しなくてはなりませんね。
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