一昔前なら改元? 時衆の衆徒は戦場へ 檀那の所望 

昨日、あの熱海の土石流の起因となった盛り土の土地の所有者の弁護士とやらが「法的責任はナイ」と断言していましたが、それはちょっと違う・・・と感じたのは私だけではないのでは・・・

要は雇用関係(古い言い方だと弁護士から見て「檀那」-スポンサー)ということになりましょう。

 

弁護士はその「法外」の印象を世間に広げることよりも自身の忠誠をただ「檀那さま」にアピールしたかったのでしょうね。

 

「責任がナイ」の理由がその人(地権者)は投資家で、ただ「買っただけ」何よりその土地の盛り土の件は「知らなかった」というところ。

法的に民法上「知らなかった」はしばしば免責対象になることがありますが、土地の登記上の所有者というものはその果実もそうですがすべてその瑕疵の責任を負うのが当然の事。

どう考えても「知らなかったから法的責任はナイ」は通らないでしょうね。

 

ただし東京では無免許運転で事故を起こしてもタイホされない人もいれば広島では買収事件のおカネを貰っちゃった皆さんもお咎めナシという事案を目の当たりにしていますのでこの熱海地元の資産家の事案、本当に「知らなかった」がまかり通ったりして・・・いつもバカをみるのが民の衆なのでしょう。

 

それにしても思うことといえば疫病蔓延と災害の時節、こういう悪いことが重なるとまずは為政者から持ち上がってくるのは「改元」の提案というのが日本の歴史。

為政者は縁起を担ぎたがるもので天変地異や疫病、悪しき事、嫌なことがあればまずは「改元」を考えるものでした。

 

そしてその元号の字面もどうこうと学者たち知者の意見を聞きながら文字を決めていくのですがやはり使用文字には偏りがあります。「元」「徳」などもありますがぱっと見、私は「応」の字の使用頻度の高さを思います。

たまたまですが一遍さんの生涯(延応元年1239~ 正応二年1289)など「〇応→〇応」でしたね。

また「洪」という字。それは広い・大きい・優れたなどの意があって明の始祖が「洪武帝」です。

それにあやかって足利義満が「洪」の字を元号に入れたかったといいます。

しかし本邦その語といえば洪水の「洪」。当時の天変地異の最たるもので「いくら何でも・・・」という具合にそれは周囲から反対されたそうです。

そして代わりに決まったのが「応永」(1394~1428)ということになります。この年号は一桁(数年)が当然の改元の時代に思わぬ特異の長さ(35年)となりました。

 

「応」という字は「こたえる」「承知する」で国のトップが銘々するには実に適切な語。庶民の声を聴くという気概が見えるというもので。

やはり国というものは衆愚といえども耳を傾けて「こたえる」姿勢が大事となりますからね。

 

さて、今の「時宗」の「宗」は宗門の「宗」を持ってきたことは推測できますが元はといえば「時衆」から・・・と先日記しました。

その際当流、葬儀式冒頭必須の経典「勧衆偈」の「道俗時衆等~」を引っ張り出しましたが、その語彙はそれ以上に馴染みの深い「正信偈」の締めの部分にも登場します。

「~道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説」でいずれも「道俗時衆」とあります。

 

その「時」について私の解釈として「今の命を育む人々」でよろしいかとは思いますがこちらも以前といえば「六時の念仏」に励む人(遊行の衆・・・)という雰囲気も曖昧ながらあったのではないかとも思います。

「道」は僧侶で「俗」は一般人、そして「時衆」は遊行の念仏衆、いわゆる「非僧非俗の衆」ということを指していたというところです。

親鸞聖人御絵伝「洛陽遷化」の段、鳥辺野延仁寺に描かれたオレンジ色の衣と裹頭(かとう)、長刀を持った僧兵らしき人たち(犬神人-いぬじにん-とも)がその「衆」であった、あるいはその手の衆が混同されていった歴史があったともいわれます(上記画像④)。聖人の荼毘の火と同様の色相になっていますね。

ちなみに絵伝は下から上に読み解きます。

上部の廟内に親鸞さんの像が見えますが「本願寺の始まり」を表していて絵伝の締めとなっています。

 

その非僧非俗の念仏衆がそれまでの寺院がやらなかった葬送というものを請け負ったのが民間の葬式の始まりともいいますが彼らは戦場にも赴いてそれを仕事としていました。

 

また御開祖親鸞さんが著書「教行信証」(その「正信偈」が含まれる)の草稿が1225年頃といわれ、一遍さんの生涯(延応元年1239~ 正応二年1289)より以前のことからその「時衆」はやはり空也(念仏聖)の遊行によって影響を受けてその思想が拡散「非僧非俗の衆」を指していたかとも思われます。

のちに親鸞さんもその「非僧非俗」を自称していますので色々な意味でその遊行、念仏衆、六時そして一向宗の混同があったのでしょうね。

 

ここで清浄光寺に残る、戦闘参加時の時衆の掟という興味深いお達しがありますので記します(画像①)。

 

 

「十一代上人御自筆 軍勢時衆ノ掟」

 軍勢に相伴時衆の法様は、観応の此(1350~)、遊行より所々へ  

 被遣し 書ありといへとも、今ハ見おひ聞およへる時衆も不可 

 有、仍或檀那の所望といひ、或時宜くるしからしといひて、心に

 まかせてふるまう程に、門徒のあさけりにおよひ、其の身の 

 往生をもうしなふもの也、檀那も又、一往の用事ハかなへとも、 

 門下の法にたかひぬれは、時衆の道せはくなりて、かへて檀那  

 の為も難儀出来すへし、然ハ世出可被心得条々、

一、時衆同道の事ハ、十念一大事の為也。通路難儀の時分、 時衆

 ハ子細あらしとて、弓矢方の事にふミをもたせ、使せさせ ら

 るる事、努々あるへからす、 但妻子あしきハ、惣して人をたす

 く へきいはれあらハ、不可有子細、

一、軍備において檀那の武具とりつく事、時としてあるへき也、

 それもよろいかふとのたくひハくるしからす、身をかくす者な

 る かゆへに、弓箭兵杖のたくひをハ、時衆の手にとるへから 

 す、殺生 のもとひたるによてなり、

一、歳末の別時にハ、軍備なりとも、こりをかき、ときをし、阿弥衣

 を 着して称名すへき条、勿論也、雖然所によりて水もたやす

 からす、食事も心にまかせぬ事あるへし、又檀那の一大事を

 まかせてさたし、こりハかゝすとも、くるしかるへからす、

 若又さり□を へからん所にてハ、如法におこなふへき也、

一、合戦に及ハん時ハ思へし、時衆に入し最初、身命ともに 知識

 にふせしめし道理、今の往生にありと知て、檀那の 一大事を

 もすゝめ、我身の往生をもとくへき也、此旨存知せ さらん

 衆にハ、能々心得やうに可被披露、穴賢々々、

 南無阿弥陀仏

  応永六年(1399)十一月廿五日 他阿弥陀仏

                                                 ~京都国立博物館展示会~

 

年号としてここでも観応(1350~)と応永六年(1399)と「応」 

付き。「他阿弥陀仏」の差出名は清浄光寺(遊行寺)の2代以降

の名のりです。

 

この書面は時衆の従軍の掟ですね。

「檀那」の所望するところにしろ戦闘に参加していたということがわかりますし、寺も当然にその同行に限っては容認しているということですから面白い。

「檀那」とはスポンサーであり時衆の従軍者として雇用関係の存在が彼ら各「殿」と契約があったのでしょう。

またその仕事とは戦闘で亡くなった者を弔うことですね。

「十念一大事」(南無阿弥陀仏×10回)とあります。

 

人を殺める場に弔いの専門職グループを同行させるなど気が利いています。それが以前の戦いのマナーであったと推測できるところも。

 

それでも「武器はダメ」の記述を見て思うことはそもそもこういったお達しが出る事は彼らもその長刀などをブン廻して大いに戦闘に参加していたことを感じますね。

 

時衆の衆は遊行にしろ軍事参加にしろ持ち物は限定されていますのでそもそも武具すら持ち歩くことはあり得ないのですが、おそらく「檀那の所望」として現場で武具支給が頻繁に行われていたかとも思えます。

 

もしかして人を殺めたその場で念仏。

時代劇的には面白いシーンではありますが、そういったことは実際にあったかと想像してしまいます。

 

②は書面三番目にある時衆の持ち物の一つ「阿弥衣」。

六時念仏等その時の作法としてこの「阿弥衣」着用することが記されています。

③は当流「正信偈」の最後の部分。