時衆流行 横地城の三光寺跡  道俗時衆等各發無上心

雨が激しく降りました。殆ど一日中。

朝から宿泊先をチェックアウトしてやってきた息子がうろちょろ庫裏を歩き回ってネコどもとじゃれていました。

今は少々言葉が過ぎたと反省していますが「家の中でもマスクをしろ」とか、雨が小康状態のうちに「とっとと帰れ」と追い返してしまいました。

 

昼食でも一緒に・・・とは思いましたが一昨晩の焼肉に続いて『「さわやか」に行く』と言い出しましたので私どもは遠慮させていただきました。

2日続けての肉類、過多となりますからね。

 

「早く帰れ!!」は明るいうちに帰着してもらいたいという思いからですが、いかにも昨日の県内天候は大荒れです。

新東名の西部は通行止めになっていましたし県内あらゆる地で警報の類のものが出ていました。

夜になって東名も通行止めになっていましたね。

「早いところ帰れ」は正解でした。

 

さて、昨日は藤沢清浄光寺について久しぶりに記しましたので続けて。いわゆる一遍さんの時宗のお寺です。

ただしここで付け加えなくてはならないのがその一遍さんの名は教科書的には当たり前の人ですが、実は一遍さんはやはり当流の親鸞さんと同様、現在のような大きなお寺(当流は本願寺)を後世に残そうなどいう気持ちは一切合切なかったのでした。

 

その死後たまたまの流れによってその跡を継承した4代目の呑海(他阿弥陀仏)が建てて「独住」したのがはじまり。

そもそも一遍の教えは一遍死後の一時衰退を経て2代目の真教(他阿)がその「衆」を纏めあげ、現在のような宗派の基盤を作ったという流れがありますが、「独住」とわざわざ記すのはそもそも一遍は「遊行」を旨としていたからですね。道場に定住することです。

 

そして表記「時衆」とは「時宗の宗徒」のことですね。

江戸期になって時宗と統一されたのですがもとはと言えば「時衆」がその呼び名。そしてなぜか当流が「一向宗」の名に決められました。傍から見たらどちらも同じに見えますからね。

 

江戸のお上の意向は民衆を寺で管理するという体制を確立しようとしましたが、それは本山と寺の関係とその宗旨をハッキリさせそれらに必ず所属させることに意義があったのです。

切支丹の炙り出しの意図もあったかと(「宗門改」)。

 

拙ブログでは司馬遼太郎の文章を転記していますが「時宗にみる日本人」も参考にしてください。

 

時宗開祖一遍の発想もそうでしたが親鸞さんが善智識である善導さんを同様に讃ずる(正信偈 「善導独明仏正意~」の件)ところなど「一向専念無量寿仏」のほか酷似がありますね。

 

また当流の出棺勤行や葬儀の冒頭「伽陀」に続く「勧衆偈」という偈文は、善導の「観経疏」(巻一)の最初の部分です。

その「勧衆偈」の冒頭に「道俗時衆等 各発無上心~」とありました③。

そもそもこの「時衆」こそが時宗という宗旨の元といいます。

教典が重複してなお、宗派の名まで記されている部分です。

 

意味としては「坊さんも一般の人も(誰もかれも差別なく・・・)

今の命を育む人々よ・・・(南無阿弥陀仏によって)無上(ベスト)の救いを得ることができる・・・」でしょうか。

 

その時宗の繁盛の理由、特に拙ブログでは室町期の斯波氏や諸流小大名の帰依を得たことを以前記しました。

当地勝間田氏の菩提寺が清浄寺という時宗のお寺で、勝間田氏は近くに藤沢清浄光寺近隣の地名を当地に付けましたね(藤沢・戸塚・川崎・大磯・・・)。

 

そして横地城に登る入り口近くにある三光寺跡④。

以前のブログではこちらも時宗の寺らしき名であることを記していますが、その名から連想するのは「一光三尊阿弥陀如来」。勿論阿弥陀如来の「一光」ですがその両脇も数えて三光・・・

まんざらこじつけではなさそう。②は善光寺型如来像。

親鸞さんは勿論一遍さんもそちらへの参詣し少なからず影響を受けています。

何せ横地も勝間田同様に駿河今川に滅ぼされて、史料が残っていませんのでよくわかりません。

 

何故にしてその時宗が大きく広がっていったか・・・それはやはり

高貴な公家との付き合いも多々あったことがうかがえますが何といっても背後に後醍醐天皇の名が掲げられたから・・・なのでしょうかね。

 

父が亀山天皇である尊観親王は清浄光寺十二世。

後醍醐天皇崩御のあと開眼されたというお軸①など清浄光寺に複数伝わっています。

こちらは天皇の晩年の図といいますが尊観が清浄光寺に持ち込んだもののよう。

神であり仏である天皇の姿を描いていますが、そのブランド力は当時計り知れず大きかったかも知れません。