一向宗呼びはカンベン願いたい 宝暦十年 夏水仙?

私の沖縄の季節感は慰霊の日の6/23が基本。だいたいそれ以降が本格的夏となります。

大抵例年の梅雨明けがその辺りですからね。

よってその6/23~7月初旬こそ安定した夏となるため、以前といえばその短期間に沖縄入りを目標にしたものです。

ただし、熱帯低気圧が発生しましたのでもしその予定を入れていたとすれば冷や冷やでしょうね。

 

毎年毎年、「今年こそ」と言いながらの虎視眈々でしたが、今年は早々に諦めていましたのでまったく未練はありませんね。

まぁあの様を見ていれば致し仕方なし。

今年の沖縄も先般行った奈良と同様、人は少なくビーチ独り占めの楽しみがあったでしょう。

最近は奥方にその沖縄行きを誘ってもまったく乗り気なしです。たくさんの「おいしいもの」の話をしても見向きもしてくれません。息子も仕事があります。

沖縄は独りで行くのは面白くないですね。

 

齢を重ねて、梅雨明け直後の直射日光の強さに堪えられるか・・・だんだん無理っぽくも感じるようになりました。

異常にクロくなった挙句、「いい歳こいて」と後ろ指を指され、ちょっぴり恐い皮膚がんになって死ぬ・・・その構図も頭の中にあります。

 

昨日の相良も晴れにつき久々のんびりと植木仕事

4本ある松のうち門を入ってスグのところにあるクロマツに手を入れることにしました。

この分では4~5日はかかるかも知れません。

 

一番放ったらかしになっているのが中庭の五葉松で、見苦しさが際立っていますね。

こちらは剪定ではなく殆ど伐採に近いものがありますがすべてにおいて尻に火がついている感。

静波墓苑の垣根も「行く行く」言いながら2年以上手つかず。

全部放置したままにして「ジャングルにしちまおうか・・・」と開き直るのは間近か。まぁすでにソテツの繁茂はジャングルに近いものが・・・

「できないものはできないよ!!」「勝手にしやがれ!!」とニヤっと笑いながら畳にひっくり返って昨日も昼寝。

 

さて、昨日ブログでは「一人扶持賜る」の拙寺住職宛て文書に拙寺宗旨を「一向宗」呼びしていたことについて記しました。

七代祐信が賜った扶持米は「享和元(1801)~文化二(1805)」ということでしたので(→こちら)田沼意次後の相良、一橋領となった代官初代山下為之助の時。

 

それより前の宝暦十年1760の文書が出てきました。

先日の降雨があった前日にそれを外の物置で発見したのですが、雨の降った翌々日の一昨日、その文書を今一度確認しようと軽トラの脇を通ると地面に紙片が落ちていました。

何?と思いつつ手にとってみればまさにその文書でした。

探しに行く手間が省けたというよりか、自分のヘマに愕然とさせられました。

 

私は晴れの日に軽トラの荷台で古文書の整理をしていますが、あの日のことを思い出しました。少々の風が吹きだしてヤメにしたのでしたがその紙片がたまたま横のアオリと荷台の間にサクッという具合に嵌まり込んでしまったのでした。

私はそれに気づかず、他を片付けてなお、軽トラを走らせていました。

 

その後降雨があって地面に落ち、自然乾燥していたものを拾い上げたのでした。

偶然に偶然が重なって結果「何事もなかった」というバカバカしい話ですが、まさに危ういところでした。

 

その書面がこちら④。宝暦十年1760です。

その時代はまさに田沼意次が相良に入る直前、本多忠央(ただなか)が相良の主。

ところが美濃郡上藩金森頼錦の改易に連座(「郡上一揆」)して相良を去ったその人です(長門守)。

それでは文書を。

 

乍恐以書付奉願候

拙寺宗名代々浄土真宗ニ而御座候所ニ本多長門守様

御代ニ一向宗と村々江被仰付宗門帳一向宗と相認

来り申候所此末何卒本名浄土真宗と相改申候様ニ

被仰付被下候様ニ奉願候以上

 

  宝暦十年辰十月     新町 大澤寺

  御役所

 

本多長門守が当時相良藩に移封された際は寺社奉行。

その時拙寺は宗門帳に「一向宗」と記されて(迷惑している)がこれからはどうか本当の名前である浄土真宗と改めて欲しい・・・といったところでしょうか。

 

その主張、私にはインパクトがありました。

一介の田舎寺、本願寺の末寺の住職がそれを主張するのは少々おこがましいことかと思えますし、逆にお咎めを受けるような気がしてなりません。

御本山からの言い分なら大いにわかりますがね。

 

何分、思ったことを遠慮なくズケズケと言うのがこれまでの当家。私は小心者ですからそんな真似はできませんね。

 

さすがに冒頭タイトル

「乍恐以書付奉願候~おそれながらかきつけをもってねがいたてまつりそうろう」には少々の遠慮が見受けられますが・・・

 

それに対してのお上の反応は・・・昨日の通り「一向宗」のまま。

そこのところはさすがにどうにもならなかったワケで。

 

画像は一昨日掘った石標の移動先。山門入ってスグ右側になります。舞鶴殿が怪訝の顔で見ていました。

③は昨日の花の画像。

うっすらピンクの部分を撮るために一眼レフを持ち出しました。

花に詳しい檀家さんに聞けば「ナツズイセン(夏水仙)」と言いますが・・・

球根だったらアタリですね。

ナツズイセンは濃いピンクが多いような・・・

 

 

 

 

 

 

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コメント: 2
  • #1

    お祭り大好き (水曜日, 23 6月 2021 05:50)

    「慰霊の日」に気づかずに4月発刊された「沖縄戦の戦争遺品」を読んでおり、平和の有難さを噛み締めています。
    本多忠央相良藩5代藩主と大澤寺の関連も勉強になりました。
    本6/23は今川氏親の命日法要(496回忌)が斎行されて参拝予定。
    今夕は静岡市・明朝は牧之原市で聖火リレーですが、前回の東京オリンピックでは、相良町を代表して秋野千代子さんが1964.10.4に東海道の日坂峠を走りました。(バイクで出掛けるもパンクで大苦労の思い出)
    明日は大澤寺を参拝しようと考えています。

  • #2

    今井一光 (水曜日, 23 6月 2021 19:48)

    ありがとうございます。
    氏親さん法要お疲れ様です。

    私の東京オリンピックの記憶と言えば遥か彼方の昔、ブラウン管の白黒画像です。
    当時の盛り上がりは特別だったのでしょうね。