一橋様 拙寺住職老齢年金?への御礼  国史跡飯盛山

昨日の報道二題。

飯盛山城が国指定史跡に認定されるようです。

数年のうちに三好長慶の大河ドラマ化があると見込んでいる私としては、着々と進んでいる・・・の感。

今一度ゆっくりと回ってみたい城の一つです。

 

その飯盛山に関してちょうど昨年の6月19日に「凡人の幸せ明日をうたがわず 飯盛山 慈眼寺野崎観音」なるタイトルで拙ブログで記していました。

偶然にも仲良く夫婦で逮捕された広島の議員さん~厚顔の夫婦

善哉~の片割れ、前法務大臣殿の悪事について、地裁より「悪質」を断じられて実刑判決と相成ったとのお触れ。

ムショ暮らしは継続とのこと。

 

買収資金としておカネをバラまけば「こうなりますよ」と教えてもらったのですから、議員さんたちはしっかりやって(法の順守)もらわないとね。

くれた方、貰った方も「お前もワルよのぉ~」と時代劇のお代官様の声が聞こえてきそうですが、本当のワルのご本尊こそアベノマスクというのが世間のコンセンサス。

トカゲの尻尾の如く切られた広島の議員さん、いわゆる死に体となり果てたでしょう、逆転勝訴そして復活など努々思われぬよう。

 

凡人としてその人の実刑、クサイ飯の件、「たまには民主主義が勝つのかも・・・」と私の質素な夕飯、焼きトウモロコシと卵かけご飯の美味を感じながら。両方ともとれたて。

デザートはさっぱりと、ところてんが付きました。

奥方は叔母の通院付き添いでへとへとになっていましたので。

 

私はといえば留守番。

寺テラス1階がガラクタ庫と化していましたので片付け整理を。

それが終わってから古文書たちを押し込んだ箱を開けてきて面白そうな古文書を探しました。

奥方からは「遊んでいやがる」と嫌みの一つ二つ。「血のつながった私の叔母さんではないのだ」です。

「もっともである」と反省です。

 

古文書の山から「一橋様」の語が目に留まって④、他の関係書面を探しました。すると⑤を発見しました。

「一橋様」といえばここのところブログは小島蕉園の「蕉園渉筆」の中から記しています。そのどちらにも「太公」の粋なはからいについても記されていました。

 

太公は松平治済(宝暦元1751~文政十1827 一橋卿)将軍家斉の父で、かなりの豪奢な生活をしていたといいます。

直接的ではないにしろ田沼意次を失脚に導き、それでいてその先鋒にあった松平定信をも失脚させたというかなり曲者と言っても過言ではない人ですね。

 

その一橋様に拙寺9代目の祐厳が報告と御礼の手紙を出していたことがわかりました。

内容は大澤寺7代目住職の祐信が隠居していたもののこのほど逝去(文化二1805)してそれまで4年間賜っていた「一人扶持」について謝意を表するものでした。  

 

吉祥寺の叔父の見解は「老齢年金のようなものでは・・・」です。

 

江戸期にそのようなシステムはあるはずもなく特殊な例なのでしょうが、殿様は拙寺にも配慮のあとを残していたのでした。

 

一橋様御支配之節

一位様格別之

御仁恵之 御思召ニ而

 當山隠居祐信江

 九十二才迠存命就夫

御扶持方壱人扶持被

下置候

享和元(1801)ゟ文化二子(1805)十月迠

頂戴仕候 別段難有御事故

記置候十月十日命終其月迠

被下置候也  相良新町

文化二子   大澤寺 十月 祐厳

 

壱人扶持とは一日玄米五合、一月に一斗五升を毎月末に支給されるというもので、コメ換算の金員もアリ。

御下劣な私としては「黙っていたらずっと貰えたかも」などと。さすがにそれは「そっちかよぉ・・・」と奥方が、「年金詐欺」と同じですね。

まぁ当時の拙寺の経済基盤は今と違って確固たるものがありましたのでそれを頂戴してどうこうということではありませんが。

 

本当の驚きは、なんといっても拙寺の住職が・・・ですが、まぁ当時の八十八歳といえば世間から言ってかなり奇特なことだったかもしれません。

領主が領内の高齢者に褒賞を与える・・・やはり領民にとってありがたい殿様だったのかも知れません。

 

やはり代官を飛び越えて・・・というのもアリだったのかというのも不思議なところ。

当時の一位様に手紙で御礼できる立場とはいったい・・・

 

尚、当時の公文書も今と同じ、「正副」があるもの。

必ず控えを同時に書して「残す」というのが通例。

現在は書面が複写になていたりコピーがありますが・・・

また今、古文書で残っているものといえば「副の方ばかり」と叔父が。

 

しかし相良の地に蕉園渉筆での記述といいここまで「一橋様」が登場してくるとなると、田沼後の一橋代官よりも「一橋様」の史料を集めてみるのも面白いかも。

他所での出現を待ちたいものです。

 

拙寺所在地の件「新町」と記されているのも着目。

 

7代目の隠居の件、9代目の孫が御礼をするのは8代目祐本が寛政三1791に五十五歳で亡くなっているからです。

父親が九十二歳の長寿であってもそのようにうまくいくとは限らないのでした。