「学校 行きたくない・・」 休んでOK !  残念石

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昨晩はNHKスペシャル「若者たちに死を選ばせない」を視聴しました。

2020年の警察庁調べといいますが「10代・20代の自殺者」の数が3298人といいます。前年比20%増と。

毎日毎日新型コロナの感染者と死者の数字ばかりに追われて、その数の多さに一瞬ピンときませんが、これはいくら何でものっぴきならない数字です。

 

その大量死の3割の子供たちの死の原因について「理由不詳」と片付けられているとのこと。

片付けるなど記すと語弊がありますが、亡くなった人にそもそもその「選択」の理由を問えるはずもなく、致し方ないといえばその通りですが。

 

しかしながら、少しでもその「選択」の理由に近づいていかなくては次のそれを選ぶ若者の動向、抑止に生かすことができませんね。

番組ではその対策に動き出した専門家たちによる膨大なデータ(過去30万人)を分析し、対応を検討、対策を始めている様子を報じていました。

 

一つ、子供たちがその選択をとる前兆、かなりの確率でそれを口にしたり、ネットで検索するようですが、それが「学校 行きたくない」といいます。

大人たち、親たちはその声を聞き逃してはいけないのです。

前兆であると同時に「最後通牒」である可能性があるからです。

大人たちは最悪の結末を目前にしたときのみそのある意味身勝手にも思う最後の示唆について「なぜ どうして」の茫然に立ち尽くし、取り返しのつかない現実を省みるだけの躰となるのですから。

 

そうならないため、日々何事にも耳を貸し、それも時として「ただ聞く」ことが必要なのです。

大人からのそれは「なぜ どうして」の質問はナシというのが一番よろしいようで「ただただ聞く」ことが大切だといいます。

尻を叩いて大人、親の理屈のみで「学校へ行け」の言葉や「我慢して」の一見思いやる心が見える言葉もひょっとして子が思う「親からの最後通告」の如く思うこともあるのでは・・・

番組にもありましたが子を失ったある親はその「学校 行きたくない」に「休もう・・・」が言えなかったことへの悔いを述べていました。

 

子供たちのいる法要で私はよく「(時として)捨てよう 諦めよう 」の気持ちの大切さを話し、親たちにしかめっ面をされていますが・・・

親はまず大抵その子の「選択」に「まさか あの子が・・・」と茫然としているのですからね。

私は早いうちに子たちが溜め込んでいるであろう内圧への「バルブ開放」の手立てとしてその台詞を刷り込んでいるのですが。

 

その番組のあとはシリア人若者の生きるために死する件の番組を視聴しましたが、それは混乱のシリア人の若者が傭兵として各戦闘地域に出稼ぎに出向いているというもの。

どちらも最前線で死と隣り合わせとのことですが、リビアでのシリア人同士の殺し合いについてスポットがあてられていました。

リビアの石油利権を狙った二大勢力のバックにはトルコとロシアが控えていて、殆ど代理戦争の如し。やはり「経済」が人の命の上に行く例です。

その二国が秘密裏にそれぞれシリアで傭兵を集めてリビアの最前線に送り込み「殺し合い」をさせていたという人間世界の皮肉と醜さ。

 

日本もシリアも若者たちの「死に至る」という点では同じなのですが・・・

 

何事もそれらの事象を「残念」と一言で言うのは簡単ですがそれはあまりに客観すぎますね。

その矛盾をはらむ悲劇の数々が「私のことである」のスタンスが社会に行き渡らないと・・・。

 

さて、昨日は駿府城の石垣と草ぼうぼうの夏季野山の遺構訪問の難儀について記しましたが画像はそれらに共通するもの。

こちらは木津川の支流近くに広がる竹藪(「御藪」)の西端で大野山という採石場の東です。

場所は加茂駅から真西に向かって突き当たった場所が大野山になりますが、山際に沿って右方向に曲がって少々で「残念石」の矢印が見えます(最後の画像)。

 

そこから少し降りた場所にその「残念」なる語が冠にある巨石が散らかるように草むらの中に。

大坂城石垣普請のため藤堂高虎の差配でこちらの大野山で切り出された石たちです。

石は木津川の流れを利して大坂城へ多数運び込まれたことだったのでしょうが、こちらには切り出されたものの大坂には行かずそのまま藪に放置された石が・・・(場所はこちら)。

 

人はそれを後世「残念石」と言いますが、勝手な言い分です。

いたるところにその手の石は半端ない量で存在しますが、これは理由なんてありません。

時に水没事故等はつきものですが、この残材はまさに封建時代命令系につきもののところ。

トップがそれ「やっといて・・・」とお気楽に言ったとしてもそれは絶対。

順繰りに指令が末端まで行きわたり、あのような巨石が大坂まで行って組み上げられたのです。

そしてどこかの時点で完成しつつあって「もういい」という完全なる命令までのタイムラグがあるからですね。

 

「石が足りない」→「工期遅れ」→「責任」という構図よりもひたすら石の切り出しを行うのがスジ。

余ったら放っておけばいいし不足が出れば在庫として使えばヨシ。

それを告げるのを忘れて切りすぎたとしてもそこは封建時代。

 

それにしてもその時期(穴太衆の細かい石積み技術から巨大天守を載せる天守台ブームへの変革期)にあって石切り場近くの農民としてあればあれだけの巨石の切り出しと搬出移動に関わらなければならなかったこと、労力は計り知れません。

それを思えば今の時代がなんと仕合せなんだと思わされるばかりです。

 

今の「私の仕合せ」を感じるべきなのですがそれを享受できないこの時代とは如何なるものなのでしょう。

当時の若者たちは死の選択などは微塵も感じなかったと思われますし。

 

やはり先達が言った「生きることと死ぬことは同じ」とも。

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コメント: 2
  • #1

    がつお (月曜日, 14 6月 2021 10:59)

    難しい問題ですよね
    最初は「ありがたい」と思っていたことがいつの間にか「あたりまえ」になってそれが達成できないとそこに軋轢が生まれる
    共に声を上げられる力があると争いになって、一方のみの場合は声を上げられる方はそれに従わせようとして、声を上げられない方は我慢する
    その我慢が爆発するとどうなるのか
    失ってその存在のありがたみを再認識する
    ただ、そこにあることの幸せに気づくことの難しさでしょうか
    生き物が本能的に持っている独占欲や人間が持ってしまった感情(常識)というものに縛られてそれにそぐわない者の意見に聞く耳を持たなくなる
    相談されても対策(結論)が見いだせないから話し合いもしなくなる
    大人もわからないと言っていいと思うんですけどね
    一緒に考えようと
    どうしても「こうでしょ」と押しつけがちですが、「こうだと思うけどどう思う」とか自分の価値観を押しつけないことなのかもしれませんが正解は誰も分からないですね
    かく言う自分もクレーマーのごとき態度をとるときがあるので大層なことは言えないですが・・・

  • #2

    今井一光 (月曜日, 14 6月 2021 19:43)

    ありがとうございます。
    やはり仰る通り難しい問題ではありますが、そこをやはり自身の尻に火がついているが如く
    「私のことである」の意識がこの社会に関わる私が持たなくてはなりませんね。
    子を亡くした時初めてそれに気づくのであるのでは遅すぎます。
    大人たちはその対応に難儀しているからこそ「ただ聞くだけ」の対応を推奨しているのでしょうが、私に暴言を許していただけるとしたら
    「学校に行きたくない」には「休め」、「やめたい」には「やめろ」、「勉強したくない」には「山いこう 海いこう 遊ぼう」ですね。

    まぁそれが通用しない、許さない社会ではありますが。
    子供の将来に親は過大な期待をし、夢見て育てようとしますが子供からすれば
    「荷が重い」場合もあるでしょうから。
    その大人の夢とは・・・ガッツリ稼ぐこと、名誉と地位そして年老いた自身の面倒を
    看てくれることなのでしょうが。