昨日午前は大谷のホームランを見てから103歳で「枯れたように」(施主談)亡くなった方の枕経へ。
大谷ファン(拙寺は大谷派・・・ただそれが記したくて・・・)の私はその異次元のパワーをまたもこの目にした満足感に高揚した気持ちを抑えながら先方のお宅へ。
じっくりと故人の顔を拝し、やはりその秘めたパワーを感じました。
いつも私をニコニコと笑顔で迎えてくれたことを思い起こしながら感謝のお念仏。何と言っても大正七年生まれは驚愕以外何物もありません。
あの蓮如さんが「白骨の御文」で「たれか百年の形体をたもつべきや」の如くですからね。
もっともその語の前に「いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず 一生すぎやすし」を受けての記述ですからその「百」という数字に「百歳」という年齢としてその優位を記したわけではないことはわかりますが・・・。
しかしながらその「100年」という人生の積み重ねについて考えるとやはり「苦難の路」を想像します(苦界 堪忍)。
そういう時代を通してきたこともありますが、「そもそも」そういうものであると決まっているからです。私はその「枯れた」姿にこれぞ素晴らしい生き方であったのかとパワーを頂きました。
それから帰宅するとテレビから横浜のみなとみらい周辺がアスリートとともに映っていました。
トライアスロンの世界大会とのことでたくさんの外国人選手が招待されていたようです。
奥方が「よくもまぁ・・・」と呆れていましたがそれはあの薄汚い海を選手たちが建気に泳いでいるところ・・・を見て。
クロールで跳ね上がった水が茶色く染まっているのがよくわかります。
私どもはその地で長い間過ごしていますので、ここの水の汚物的腐敗臭についてはまさに嫌悪すべきものとよく承知しています。
地元の人間は傍らを散策してそれを楽しんだとしても絶対にあの海に入ろうなど言う酔狂はありえませんしまずその姿を見ることはないでしょう。
そこを何故に・・・ということになりますが、きっと組織のおエライさんがデスクに座ったまま「できるよ、いいよ・・・」程度に適当に決めたのでしょうね。
自身その水に浸ったこともない輩でしょう。
そこで一度伺ってみたいと思ったのはその水に入った選手のみなさんに、時に口にして飲み込んだ時の感想です。
うまいか不味いかのレポートですが、そんなところで今後も泳ぎたいものかどうかも聞いてみたいものです。
競技者も場所を選べないのは辛いこと。
以前にも記しましたが、あの競技だけは首都近郊、特に東京湾で開催するのは罪なことだと考えます。
国内トライアスロンといえばやっぱり宮古島でしょう。
横浜のみなとみらいをぐるぐる回ってその地を「紹介」したいという意図だけは伝わってきましたが選手たちは「たまったもんじゃない」ような。気の毒すぎ。
まさに「身を捨ててこそ」の強いハートを思います。
私にはそんな割り切りは到底できませんね。
以前でしたら「落水者でもいたら」(助けに飛び込めるか・・・)などと少々考えたこともありましたが、それでもそんな時はやはり躊躇してその場を離れたくなる場所でした。
「捨ててこそ」、拙ブログでもそのフレーズを好んで使用していますが、それはどこかでそれを勢い余って「座右の銘」と記したからですね。
好みの言葉でありますし空也~一遍そして当流にも親鸞聖人へもその思想は伝わっていると思います。
ただし真宗ではその「捨ててこそ」は私のような煩悩具足の凡夫にとって鋭く迫って来ませんし、そもそも捨てきれるものではないと、わかりやすく「こだわらない」「ありのままに」と言葉を変化させて伝わっているかと。
どちらも大事にしたい語です。
画像は清浄光寺本堂前の一遍上人像。
持ち物は何もなし、まさに真摯な清貧、痩せ型のスタイルに合掌の形。これを見ただけでもその「捨てきれていない私」を思うワケです。
コメントをお書きください