コロナ時代のサクラ見物 街中より山がイイ

昨日の法事のラストを飾る御文は「疫癘のお文」でした。

最近は七回忌以上の法要は機械的に「疫癘」を拝読しています。

要は「病-死」(生老病死)は人間の定業であるから「ごちゃごちゃ考えてもしゃぁない」ということなのですが、1400年代後半の病苦蔓延期(推測)にそれを語る蓮如さんの達観は感服させられますね。

衛生、医療、病への知識という点、格段に今とは違うワケでご当人や周囲の不安は計り知れないところがあるのですがね。

人間のスケールが違うということだけはわかります。

 

絞り込んだという参列者でしたが10人を超える皆さんが「久しぶり」に対面したのでした。

本堂前に店頭などに設置されているような体温センサーを持ち込んで置いた方がいらっしゃいました。

会式前に珍しさもあって「準備がよろしいですね・・・」と声を掛けると「どちらでも」あるものです・・・とのお応え。

とはいえ拙寺には設置していませんからね。

よってお寺に設置しない理由をお話させていただくことに。

 

「安心」を得るための一つのアイテムとなっていますが、それを「結界」として参拝者の拒絶を招いてしまいかねなくなることをお話させていただきました。

 

お寺は「あなたは37.5以上あるから」などと入道場を拒むことはあってはならないということですね。

むしろそういう方たちの救済、ヘルプの手を伸ばさなくてはならないはずです。

そして現在の感染者拡大の原因として、感染しても発症しない無症状者(→昨日)の存在があるので、その器具の設置によってすべてにおいて「安心である」と考えるのはリスキーであることも話させていただきました。

 

さて、見ごろとして今節最終リミットと考えた昨日の土曜日、当地はいいお天気に恵まれました。

参列者の皆さんは「花見は(人が集まるところは)怖い」と仰っていましたが帰りには小堤山あたりなら・・・とのことでした。

テレビの画面からはそういった当地の皆さんの控えめな行動規範からは強烈に逸脱した大挙密集の姿が飛び込んでいましたが

我慢して耐えるのは勝手とばかりに羽目を外して騒ぐ人々を見ていて、新コロが無くならず、この苦痛を長引かしている原因は「あんたたちにある」と考えてしまうのは無理はないような気もします。

 

やはり東京の皆さんの暴走がコロナの存続を維持させ、ゆくゆく地方の人々を苦しめているという構図になっているのでは・・・

対立、差別の遠因なのでしょうが、忍耐する者、暴走する者それは自由勝手というのもどこか変な社会を感じます。

基本「ご勝手にどうぞ」ですが自身苦しい思いはしたくない。

 

 

さて、そういうことでサクラを味わうには人の居ない「山」。

遠くから見る山並みはことに鮮やかです。

①~④は昨日記した栃沢へ向かう道でのもの。川は藁科川です。

⑤⑥は久々「奥の墓道」氏から。弘明寺の大岡川の桜。

ブラッと散策のさりげなさもよろしいかと。

 

静岡のサクラの開花が他所より遅いのは温暖すぎてサクラにとって必要な適正な「事前の寒さ」が足りないからなのでしょうか。

同じ静岡でも寒そうな山間部の満開は早く、沿海部のものは遅いような。そして今年は個体によってまちまち。

 

日曜は花散らし、月曜は晴れそうですがそれまでもつかな・・・