誤嚥の結末は長寿の仕合せ そうは言っても苦痛が

昨日は当ブログのアップを忘れていてそれに気づいたのは夕方になってから。

最近の私の頭を廻るテーマに「忘れっぽくなった」というのはありますがそうは言っても昨日は朝から色々あって、注意力散漫は致し方なし。

そちらの方へ神経を配分するタイミングがありませんでした。

しかし最近のもの忘れ傾向・・・少々顕著になった・・・の感。

気のせいであって欲しい。

 

神妙になってその老化の途にあることを受け入れる時が来ていること、あまり気分の良くないことですが、昨日お聞きした方~80歳中ごろ~の最期の様子はいわゆる「誤嚥」でした。

最近は誤嚥性肺炎などとその言葉が言われるようになりましたが、これもヒトの体質変化の一つ。

経年による体力低下、一言で「老化」のなせる結果です。

 

その方は朝、元気に起床してからの朝食中の異変だったそう。

年配の方ともなるとすべてにおいてからだの機能が劣化(老化)してきますが特にその誤嚥は神経と喉周辺の筋肉の衰えからその致命的状況を招いてしまうとのことです。

 

そういえば私など唾液を飲み込むそのタイミングの間違いから何故か気管支に入って大いにむせるという機会が多くなっています。以前はなかったことです。

飲み物なども微量ながら気管支の方に入ることもしばしば・・・

そんな時、「私も誤嚥で・・・」と思うようになりました。

 

ただしそれってもしかすると長生きできた勲章では・・・とも思えます。

そこまで自然にまかせて筋肉や神経が衰えるまで生かせていただいたということですね。

 

よって誤嚥による死はまんざら悲しい話ではないのかもとも考えてもいいのでは。

とはいえ、それはある意味「窒息死」であって少なからず苦痛を伴いますね。

す~っと、まるで「電池が切れるように」亡くなるというのは誰もが思うベストな往生で、できるだけ苦しいのはカンベン願いたいというのが本音。

 

やはりトレーニングなのでしょう。

唾液飲み込みの訓練習慣は必要ですね。

日常のおしゃべりとともに。

普段、経を読み、年がら年中「おしゃべり」しっ放しの私であっても気管支に誤嚥するのですから、齢を重ねての「寡黙」とその状況にならざるを得ないという環境はかなりヤバいですね。

 

「寡黙」の人はシブくてカッコいい一面もありますが、おしゃべりというものがすべてにおいて「健康第一」と言われるようになっています。

ずっと独り言や経典拝読というワケにもいきませんからやはりおしゃべりのお相手が必要。

 

それだけにいつでもどこでも「寡黙であれ」を薦めるこのコロナ禍は人間の健康にとって致命的をもたらしてしまいました。

 

若い輩はともかく年配者こそ「おしゃべりの場」に連れ出したいものです。 

春の法要のテーマとすることにしましょう。

 

さて、画像は南側墓地の様子。

本日コンクリを打って土地の改良工事は終了となります。

あとは石塔を建て直して完成です。コンクリの乾燥に10日は開けたいのでお彼岸には間に合いませんが月末までには何とか。春の法要までは終わる算段です。

③は一足先に完成している基礎。こちらは週明けあたりに建碑できるかと。