伊丹城から有岡城へ 防御力アップ 荒木村重の城

横浜の息子が近々引っ越しをしなくてはならないそうで、今度奥方とその手伝いに行くことになりました。

最近は叔母の家もそうですが、毎日のようにあっちこっち出向いては片付けの仕事をしています。

 

息子が会館に放置されたままになっているエレクター(金属製メッシュ棚)を使うというのでそれらを引っ張りだしました。

それらをバラして適当に掃除でもしてやろうかというところですが、棚の枚数が足りず、それらを探し出さなくてはなりません。これらは我らが横浜から転居したしてきた際に持ってきたものたちで使用することなかったものですが再び横浜に舞い戻ることになったのは「なんだかな~」と。

 

しかし、そういった荷物を増やすと今度こちらに転居することになった時、面倒なことになりますね。

自家用車では対応できるはずもなく、その際は石屋さんからトラックを借りて向かうようになりましょう。

 

さて、フロイスが伊丹に荒木村重を訪ねているという記述があります。

「我々は宵の口に伊丹と称し甚だ壮大にして見事なる城に着きたり。城主(村重)は直ちに我らを引見し非常なる款待をなし~」で「また新たに築造せる彼の壮麗なる城~」とあります。

 

要はそののちの信長による総攻撃は1年の籠城となったのでしたがこの城の総構えがそれだけの抵抗力が完成形に近かったことを物語っています。

現状はこれまでブログで記した通り本郭は伊丹駅となっていて大部分の遺構は路線と駅の拡張で消滅しています。

 

この有岡城の総構えは荒木村重の成果であることは違いないことです。

また「1年もの籠城耐力」はたまたま村重の脱出によって綻びをもたらしたのでしたが、立地的に摂津という京都に近く西国とを結ぶ好立地という場所とあって村重が入る以前の各時代の城主たちも争乱の焦点となっていて、それまでも「堅固の城」というイメージは長くあったようです。

 

猪名川の存在も総構え(町街区域と城塞)は堀と水運の機能を持たせていたことは言うまでもないことでしょうね。

大きな堀への改造の件も幾たびかの戦闘のたびに改善を施されたでしょうし、特に戦闘のテクニックとしての鉄砲の出現からその対策も重点に入れて改変を重ねた城だったことが指摘されています。

 

当初国衆クラスの伊丹家は従前の武門の倣いではありますが、足利将軍方について当時勢力を伸ばしていた三好方とは馴染まずに抗戦していました。

よって流れにまかせて織田信長の侵攻に従います(永禄十一1568)。信長による将軍義昭を奉っての上洛です。

信長が三好三人衆を一掃し摂津を制すると芥川城を和田惟政、池田城を池田勝正、伊丹城を伊丹親興(忠親)と守護に任命(摂津三守護)として伊丹氏は戦国の一大名としてデビューすることになります。

 

伊丹家にとってはまさかの出来事だったのでしょうが元亀四年1573に信長が義昭を追放したことからその運命は変わってきます。

将軍への気持ちを捨てきれない伊丹は結局、信長のお眼鏡にかなうことができなかったというわけで、天正二年1574池田勝正の家臣で実力を付けていた茨木城の荒木村重をバックアップして池田と伊丹の両氏を討たせて、結局は村重に摂津守護三十八万石の領地を与えたのでした。

その時点で村重は伊丹城に移り有岡城へと名称を変えて新しい縄張りの構築をしたということになります。

 

そういうことで彼の二心は信長の怒りとしては「誰のおかげで~」の怒り心頭となったということはわかりますね。

荒木の信長への反旗は籠城ではなく光秀型のピンポイントターゲットで成功させたとすればまた歴史は変わった・・・などと想像してしまいます。

 

本願寺門徒として信長が討たれたことは有難かったことは確かですが、秀吉の台頭もむかっ腹が立ちます。

光秀の天下となれば家康の幕府は無かったような気もしますし室町幕府を再興させるようだったらやはり旧態依然の感。

 

歴史は人間が繰り広げる様。

必然ではなく偶然のところ大ですね。

誰がどう頭角を現してくるか・・・違った歴史があれば現代の状況も変わっているかも知れません。

社会・個人の存在自体も変化するでしょうから私自身の存在も危ういかも知れません。

 

伊丹は近くの空港から発着する飛行機がひっきりなし①④。

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