南北朝動乱展 後醍醐天皇綸旨 1333年 平田寺

お国の無料PCR検査の体制も夢のまた夢なのでしょうか。

都内繁華街でのそのサービスについてのニュースがありましたが、昨日は楽天がそのお気軽セット、自宅で唾液採取するタイプですが8980円(税抜き)で発売されました。

2~3日でメールにて判定を受け取れますがやはり土日祝日は稼働していないようで、「検査」の即時対応が難しいことがわかります。

このタイムラグについてはキットと検体往復の時間があってどうしても仕方ないこと。

よって発熱してからこのキットを取り寄せるのはダメですね。

健常時の「念のため」ということでしょう。

まぁこの程度の出費で安心を得られるのは悪くないかも・・・。

 

先日来、画像アップしていました拙寺境内墓地の地盤改修工事の件。現状目論見は外れています。

それはまず、

①既存の墓地の持ち主で連絡のつかない家がある②改修済の墓域への移動よりもそのまま現地にあることを希望される家がある・・・ということですが①はもうしばらく待ってから工事着工してしまい完成次第元の位置に組み立てるという強硬策も思案。

事情を説明して「ごめんなさい」ですね。

②もうしばらくはバラしたままにさせていただき、完成後元の場所に建て直せば問題なしということです。

当初は改修地に設置していただいて(場所移動)様子を見たかったのですが難しいよう。移動を好まない理由はいろいろあるでしょう。

 

しかし最大の理由はやはり当方の経費です。

今回の工事で一基当たり5万円の改修費となることがわかりましたが、これは当初の見積もりから突出してしまいました。

あの地盤にはそれだけ余計な対策をしなければならなくなったというわけですが当時の父が見ていない間にやられてしまった「デタラメ工事」は土砂を取った穴にどちらかの解体工事現場で出たガラを詰め込んでその上にさらっと土砂をかけたというものでした。

この改修工事は①ガラを取り出し②土砂を購入して③転圧・・・といった本来ならやらなくてもいい工事をさせられているわけで重機まで導入しています。

それに加えて長年にわたってこの見苦しい様と迷惑を味わいたくないということから鉄管パイプを打ち込みかつ鉄筋を入れてコンクリートを充填するなど普通の基礎工事とは格段に手間がかかっています。

ということで当然に経費は跳ね上がることは予測していましたがキツイですね。

 

よってあと50程度の区画を何とかしようとは考えましたが現状殆ど不可能。「やーめた」という具合、投げることとしました。

とにかくはあと16区画のみは施工して当分はおしまいにしようと考えています。

どうしても移動をお願いしなくてはならないお墓もありますのでそこのところはじっくりお願いしていく予定です。

尚、墓石の解体と組立の件も石屋さんに依頼、拙寺で責任をもって行うことになっています。

 

再び愚痴らせていただきますが、業者によっては監督を怠るとあとあと酷い目にあうということ。信用がおけない人物がいるということを周知していただきたいものです。

先代はそんなことを知らずに逝去していますが、やはり「カモ」にされる方がワルイのでしょうかね。

 

「急急如律令」(きゅうきゅうにょりつりょう)・・・といった語(呪文)がありますがそういう嫌味も吐き散らしたくなります。

 

奥方が言うには私の代で起こった地震対応、あの本堂の改修工事の際に私は「毎日現場にいた」そう。そういえば張り付いて何かしらの作業をしていました。

そうあったからとは言いませんが、とてもいい仕事をしてくださいましたよ。

施主が現場にいることは作業者にとってはウザったらしいことかもしれませんが。

 

先日は藤枝の郷土博物館の「南北朝動乱展」へ。

提供いただいた2名入館できるチケットを握りしめて。

ぼけぼけしているとそろそろ終わってしまいますからね(1/31日曜日まで)。

特に相良の人間として特筆すべきと思うのは平田寺所蔵、後醍醐天皇の発給文書です。

「綸旨」というやつですね。

まぁ安堵状の類ですが時期もハッキリ、さすが中遠の古刹だけあって史料としては一級品。

内容を見てさぞたくさんの寺領があったことがうかがえます。

画像⑤より。

 

 

 

後醍醐天皇綸旨-元弘元年1333年(平田寺文書)

 遠江国平田寺当

 知行地事 被聞食

 事 僧衆可存其

 旨者

 天気如此 悉之 以状

元弘三年十一月廿八日 式部大丞

 

平田寺の領地-知行地を安堵する旨発給された後醍醐天皇の綸旨です。

この年の五月に鎌倉幕府が滅亡、翌月に後醍醐天皇による建武新政が始まっていますので、平田寺側としてこれまでの領地継続の安堵を新政府側に求めたその答えでしょう。

まぁ答えといっても「蔵人所」という役人が天皇にお伺いを一応聞いて機械的に出す文書です。

尚「天気如此」は書止めのパターン。

 

要は現在の土地登記システムのようなものですが、政府がコロコロ変わると再びそれと同じお願いをしなくてはなりませんから大変です。

戦国期などこのあたりの寺には今川の安堵状から武田の安堵状、徳川の安堵状など各支配者へのお願い追認状の存在が見られますね。

拙寺も家康の安堵状があったものの焼失してそれを再発行してもらうために江戸に上がった話がありました。

平田寺には室町初頭のそれが遺っているということも凄いことです。

 

あともう一つ同じ後醍醐天皇の発給文書が展示されていました。

 

①は博物館側から見た蓮華寺池、蓮生寺方向。

 

 

 

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コメント: 4
  • #1

    小山昭治 (金曜日, 29 1月 2021)

    平田寺の宝物殿で「後醍醐天皇」の文字を見て驚いたことが頭に浮かびます。
    その時に説明を聞いたわけではなく「ただ 存在する」の感だけでした。
    書いてある内容を初めて知りました。
    宝物殿には、まだ知った名前が書いてあるものがありました。
    文化財にしてもらうと後々不備なことがあるようでしないようです。
    客間に白鳳時代の仏像がただ飾ってあったのも驚きでした。
    内容を知らない凡人は、後でそのありがたさを知る。
    そんなもんです。

  • #2

    野村庄右衞門幸正 (金曜日, 29 1月 2021 13:48)

    安堵状は近隣の支配者それぞれに出してもらう必要があったんですね。
    一方は良いと言ってももう一方がダメと言ってたら攻められて奪われる可能性がある。。。?

    代々続く地主さんの土地なんかはずーっと昔に領主や主人から分けて貰ったってのが多いのかな?

    その代々受け継いだ土地を上手く活かして大金を生み出している人を羨ましく思ってしまう私は。。。情けない�

  • #3

    今井一光 (金曜日, 29 1月 2021 16:11)

    小山さんありがとうございます。
    文化財指定に関して以前祖父は「やめた」といって本堂やら如来様の県指定を取り下げてしまいました。
    要はあれこれと指示されて特に本堂の改修など手を入れたい時までお伺いをたてなくてはならなくなる・・・とどなたかにたきつけられて指定をしなかったワケですが、それはのちのち私の代になって痛いしっぺ返しになりました。
    本堂が地震によって損傷した際にその修繕改修を檀家さんにお願いしたのでしたが、もし県指定の文化財に登録されていればもっと皆様方のご負担は減ったと思います。
    文化財の保全は一人の力ではやりきれるものではありません。
    今の時代はできるだけ指定登録ができるのであればやっておいた方が賢明ですね。
    拙寺の場合は以前県にお伺いを立てたところその申請の行列の一番最後に並んでくれとの如く言われたため諦めました。
    そこのところ誰もが気づいているわけで。

  • #4

    今井一光 (金曜日, 29 1月 2021 16:54)

    野村さんありがとうございます。
    土地の安堵状ほど儚いものはなかったでしょうね。
    ただし一時期のみの対抗要件としてその書面は近隣には有効だったはずです。
    戦国期など特に国境の近い場など「国盗り」に成功した新領主に対しては必ずその旨の了解を得なくてはなりませんし、まずそのお伺いを立てて来た者は服従非反乱と協力を意味しますので新領主も喜んで了解したことでしょう。
    ですから既得権者は領主変更の際、真っ先にそのお伺いの書面を出して安堵状をいただくということをこころがけたはずです。しかしタイミングを間違うとリスキーですね。

    寺社の場合は租税免除地になることが多くそれをまず最初にできるかできないかでは地頭などの第三者に対抗できませんので、要領よく早く立ち回る必要がありました。
    そして寺社の領地に関しては「そのまま使っていいよ」の慣例があって中には関西系のキリシタン大名(高山右近・・・)の寺社ですと破却没収もありましたが、まず大幅な変更はなかったと思います。
    神仏護持の意向はどちらの支配者であっても同様だったからです。
    そして開発領主であっても本領安堵をしてもらうのは鉄則でその「安堵」こそ「服従」であって支配下に入ることを意味します。
    勿論租税対象であり軍事には兵をまとめて出す必要があったわけです。

    そして現状土地持ちの方々というのは色々理由はありますがまず昭和敗戦後の農地改革の際、うまく立ち回った方々であって中世以前の一所懸命とは違うかと。