代々を経ん 松風さゆる 宮居哉 信忠設楽原の陣

NHK「クロ現」の「変異ウィルス」についての番組を視聴しました。

今言う変異のそれは今のところ増殖力よりも感染力の脅威に着目されています。

要は現状ウィルスはヒトへの害毒を増すように変異しているのではなく感染しやすく、広がりやすく変化しているようですのでその拡散は止めなくてはなりません。

今のところ日本国内で変異ウィルスの感染伝播の証拠はないとのことですがそれが止められなくなったらイギリスや南ア、ブラジル、アメリカの如くになるということですね。

 

以前は日本人の道徳観や従順(すなお)、健康管理力や病気に対する「こころがけ」「良識」は(他国に比べて)特にスバラシイからだ・・・等々力説する方がいらっしゃいましたがそれこそ今言う「エビデンス」のない感覚的なもの。

「日本人は特別」・・・いつぞや聞いたことのあるようなフレーズです。

かつては大和魂・日本男児、神風とかいろいろな不可思議な語が用いられていましたね。まぁ特に精神論的なものでしたが。

そういった精神論がウラにあれば新コロに罹った者に対しての「精進が足りない」「不徳のなせる業」的批判と後ろ指でもって罵倒し嘲笑するのでしょうね。

 

要は他国と比べて数値的に少なくあることは「ただの偶然」であって色々いわれてきたそれら理由(発症者が少ない)というものが「妄想」で、その根拠レスのものが漫然と胡坐をかくための理由(結果的にでも)としたらそれらを吹聴したタレントや政治家諸氏、猛省いただきたいものです。

 

さて、前回の「松永平蜘蛛」大河はその前の「本願寺~」タイトルのものよりは視聴率が上がったそう(11.4→13.6%)。

前々回のそのタイトル(本願寺)とは裏腹に光秀妻の死にウェイトがかかり悲哀の場面が多くて「なんだかなぁ~」のだらだら感。光秀のやさしい人間性を表現するために描きたいところだったのかもしれませんが・・・

 

先日も記しましたが「信貴山城松永」の場合、名物平蜘蛛との爆死シーンというのがこれまでのこの手の番組の常道でしたが、今回はそれにまつわる信長方の総大将嫡男信忠の登場や「佐久間信盛の役立たず」などの信長の台詞までありました。

この「佐久間役立たず」については松永の名物お宝が焼失したことに嘆いての八つ当たりなのでしょうが、これはのちに「佐久間19ヶ条折檻状」なる追放劇を示唆しているのでしょう。

しかし如何にもそれはこじつけが甚だしいかと。佐久間追放の理由がまるでそこにあったの如く。

 

むしろその佐久間が消えたことによって結果的に大利を得たカタチとなったのは光秀でした。

よってまた追放の画策暗躍したのは光秀という説が後世に出たりする理由になっています。

要はこれまでの佐久間の信長の右腕としての戦働きをそのまま引き継いだというものです。

 

この尾張譜代のガチの信長支持者をいとも簡単に追放するやり方に光秀が不審を抱いたということも本能寺の理由の一説として考察されています。

 

さて、天正十年六月に父信長とともに討死した信忠でしたが、彼の短慮がなければのちの秀吉の天下取りは無かったというのも歴史のタラレバ。

要は本能寺襲撃の報を聞くや投宿先の妙覚寺から二条城に入って立て籠って憤死してしまったのですが、若気の至りでしょうね。

その時の勢力差からここで戦う無意味を感じ取れなかったことそれは一言、経験不足。

親子の徳を考えての情緒的対応と敵前逃亡は「武門の恥」との発想は仕方ないかも知れませんが、冷静な判断力も武門の道。

ここで一旦後ろ髪を引かれつつも安土まで逃げ帰るなどしての時間稼ぎ。この危機をやりすごしていればその後は光秀追捕の総大将・・・。歴史は変わっていたかも。

 

彼は天正三年19歳の長篠戦で信長と同行し、その翌年には信長から早々に家督を譲られていましたので彼が生きていさえすれば家督相続による家中混乱と秀吉の台頭などはあり得なかったのですから。

 

画像は久々、設楽原の信忠の天神山陣跡(場所はこちら)。

激戦の連吾川からは約1㎞ほど西方(⑤が連吾川方向)にあって長篠設楽原パーキングエリアの東側の茶臼山(⑥画像)はこちらから北東方向になります。

 

信忠の陣場となった神社はまさに「代々」に渡ってこちらにありますが、彼はその数年後に歴史から姿を消してしまいます。「人」というものの夢の儚さをここにも感じます。

 

父親の背中を見て育った「奇妙」。きっと自身未来のバラ色の栄華を思ったことでしょうね。

やはり松永だけでなく信長、信忠、そして光秀までも「一炊の夢」だったわけで。

そのあとの秀吉ですら死ぬ前に「~なにわのことは夢のまた夢」と。

さぁまた私の夢の続きを見させていただきましょう。少しは暖かくなってくれそうです。