「念仏メディテーション」はじめ〼 各月末土曜夕

正月三日間は自宅と本堂で過ごしました。

昨日は朝からNHK「空母信濃」。殆どいつものテレビ小僧。

よっていつものやるせなさと怒り、複雑な気持ちになりました。

 

信濃の最初で最後のアベ艦長さんとやらの「判断の甘さ」・・・横須賀から呉への廻船中の出来事でした。

相手潜水艦魚雷の能力をみくびって夜間航行を強行。

護衛の駆逐艦艦長はソナー能力が劣るため「夜間は敵潜水艦が目視し難いので昼間の沿海域の航行がイイ」と進言していました。

沿海域なら近くの港に逃げ込みやすいという論ですがかのアベ艦長の選択は夜間航行のうえ沿海ではなく一旦太平洋を南下するものでした。

そのうえ航行中の突貫工事続き、溶接の火花が夜間光っていたことに周囲の駆逐艦乗員によれば「唖然とさせられた」とのこと。船舶の航行がバレることになりますからね。

 

何よりも敵の潜水艦の存在について護衛の駆逐艦が把握していてその追撃態勢に入ったところ「却って軍艦と疑われるから」とアベ艦長は放置させたそう。

結果その潜水艦に魚雷を5本命中させられたわけですが、そんな話を聞かされるとげんなりきますね。

まぁなにもその方だけの問題ではありませんが口惜しいことでもありました。

国全体、軍の上層部がおかしい・・・としかいいようのない・・・ことは毎度のことでした。

 

酷いな・・・と絶句することは数多ありますが、進水に慌てて集めた乗組員は「海軍」であるにもかかわらず「泳げない」人ばかりだったと。

一度も戦うことなく紀伊半島沖で転覆沈没することになりますが、投げ出された乗員は「藁をもすがる思い」で前の人の脚やズボンを掴もうとするそうです。

そういう場合「泳ぎながら振り返ることなく脚で蹴る」のが常道とのこと。

そんなものなのですよ。それが軍人教育なのでした。

そしてまた生き残った乗員は、ある島に集められて軟禁拘束されたそう。

その件、口外無用の申し合わせとその教育のためですね。

都合の悪いことは表に出さずに隠す・・・それもこの国の常道。

昨日の「OSI」(オープンソース~)の「O」、オープンあってこその国家、大切な発想なのでした。

 

 

そして軍としては集めた人員について把握していないということは至ってお粗末。要は名簿は船と一緒に消えちゃったからわからない・・・ということです。

どれだけの乗員がいてどなたが亡くなったかも未だ不明であるといいます。

「人の命」を思うことのその「軽さ」が際立って目立ちます。

「気合」だけでそれをやらせてきたのですからね。

 

やはりどの史実を見ても一部個人がテキトーに戦争を初めてその個人レベルで運営し国民を巻き添えにした・・・そのようにしかとれません。

「戦争だから仕方ない」というような言葉も聞こえてきましたが、もうその語は陳腐にも感じます。

その戦争を止められない哀れな人たち・・・「仕方ない」で済む話ではないような。

 

大河ドラマは一応タイトルに「本願寺」の名が。

どういう描き方をするか興味津々でしたが本願寺が攻勢を強めていた時。長袖」の語は出ませんでしたが信長が本願寺を攻略するに相当見くびっていたという描き方でした。「気合が足りぬから」「必ず勝てる」の精神論も飛び出して、討ち取られた原田直政の傷ついた家臣たちを足蹴にする様子も。

 

その精神論を持ち出して戦いを継続するやり方こそ、まさに日本の軍人精神でしたね。

 

さて、本日は拙寺のちょっとした法縁のご紹介。

いつぞやも拙ブログでも記しましたが、「念仏メディテーション」を実践することにしました。

知らぬ人が聞いたら「何のこっちゃあ・・・」と訝ること致し方ないでしょうね。

「沙汰day night 三昧」の副題はますます混乱させてしまいそう。

沙汰は色々な意味がありますが、「テーマを決めて」などなどとお考えいただければ・・・開催が土曜の夜ということでその字を充てたものです。

「三昧」(さんまい)は「集中して心のままに・・・」「瞑想」の意です。そして椅子に腰かけたままの瞑想タイム。

 

どちらにしろそちらはただ私がその時間に正信念仏偈をあげ、その空間の空気をただ吸っていただくことが主眼、他愛もない時間約30分を同座していただくだけです。

 

要は日常から離れて心をクリアにして養生いただく時間を設けようというものですが、そこでは「呼吸を意識」して「集中」そして「ありがたし」を念じます。

 

病んでいる時代、檀家さんと檀家さん以外を問わず、壁にぶつかっていようがいまいが谷底に堕ちていようがいまいが、何にもとらわれずその時間を共有、衆人に声掛けし、できればそこに痛みがあれば耳を傾けたいというもの。

総代さんからは「どうせ集まらないだろう・・・」の声もありましたが集まる集まらないなど眼中になし。

 

そういった窓口は少しでも開けておくことが肝要。

実は寺の門はいつでも開いていますが・・・

ただそれだけのこと。

ゲートキーパーとしてできることを考えるとここにしか辿り着けなかっただけというわけです。

 

すべてにおいて持続できること・・・

まずは各月土曜の夕から。

薄暗い本堂に浮かび上がった荘厳と香と蝋燭の揺らぎの空間を体験していただいてでければ・・・また、私自身も「気づき」を得られればありがたし。

 

尚、画像ポスターは布施氏によるもの。

③を正式採用させていただき今後、適当に町うちに貼り付けさせていただきたいと思っています。

ご協力よろしくお願いいたします。

まず1年間12回続けてみようというところ。

すべておまかせ。

 

第一回   1月30日 土曜日 18時より

 

     ※2022年10月最終土曜日より 通年19時開式