この時期にして富士山の頭は真っ黒。
夏の富士の如くです。
まぁ天気が安定していて長らく降雨(雪)がナイということですがそのせいで空気はカラッカラ。
井戸も枯れて水は出ず本堂前の水盤の水も半分程度になっています。
県内各所の水源地でも干上がっているというニュースが入っていますが、今思うのは大井川大丈夫か・・・です。
リニアのトンネル工事による水源減衰喪失の件、揉めているようですが私たちにとって「経済」のことより「水と生活」の方が大切。
名古屋だ東京だ・・・の皆さんの利便性と経済の発展など私どもにとっては「あずかり知らぬこと」。
これは先日の大河ドラマでの正親町天皇の台詞でしたが、下世話な表現に変えれば・・・「しったこっちゃあない」。
水の有る無しは死活問題です。
昨日は市役所の職員さんからの愚痴を。
今年は成人式が中止と決まったのですがその決定が一昨日とのことで「いかにも遅い」(他の市町に比べて)と。
記念品の発注をしたあとに決められたため、それらを配送料をかけて送らねばならないとのこと。
手間と費用が発生してしまったのでした。
そして東京は・・・新規感染者949人。
どこまで驚かせてくれるのでしょう、毎日毎日。呆れるばかりですが、都心の雑踏の中、お仕事とはいえ通勤している方々のストレスは如何なものでしょう。
新コロ猛威の春先、緊急事態宣言とやらを勇ましく出していたころ「あんなんで新コロは消えないのでは・・・」とその抜本的対応策として首を傾げていましたが、当時「山手線を止める」くらいの英断が必要と何度かブログに記したことがありました。
いまこそその有効性を思いますがこれからの年末年始の休日期間の収束に賭けているのでしょう。
しかしその決断は重大性とメッセージ性について国民は理解するのではないかと思います。
そういうことができるかできないか・・・昨日も国交省の御仁が「1月12日以降に早々にGo To再開したい」とのたまわっていましたが「アホじゃないの・・・」と思ったところ。
私がアホなのか・・・
鼻から空気が漏れてしまいましたよ。
あの雑踏の様子が日常となっていることが毎日毎日感染者が増えて一向に収束が見えてこない理由であることに決まっています。
まぁ都心の雑踏についてはこの超ド田舎に棲息している者としてはまた「あずかり知らぬこと」ではありますがね。
富士山の真っ黒に対して昨晩「真っ白になりそう・・・」と思ったのがNHKの「患者が命終えたいと言ったとき」を視聴してのこと。
「死にたい」と思うほどの痛みと辛さ・・・を感じる人々の存在について身につまされる思いがしたのと同時に私はそういう方たちに、家族にどう対応できるのだろうと・・・。
私はたくさんの無常に立ち会ってきたつもりでいますが、そちらには表に現れてこないそれぞれの故人の死と家族の思いもあったわけで、そのたくさんの思いには寄り添うことなどできなかったではないか・・・と。
心底、沸き起こる「辛さ」とそこからくる感情を慮ること・・・。
全然足りていないという自己評価。
先日は「思いやりこそ・・・」などいう話はしていましたが・・・。
勉強になりました。
医師の「苦労することは不幸ということではない」という言葉はなるほどと思いますが、苦労している人からすれば切実に死を望む機会があるということでしょう。
家族というものの温かさと医者が現場で闘っているのは「今」であるのだと感じます。
私の場合はすべてが終わった後の事。
私の立場とはまったく違いました。
このコロナ禍への対応の時代もしかりです。
医師と医療関係者たちにあらためて感謝したい。
さて、いい加減そろそろ設楽原から離れてもいいかと思うところです。殆ど1カ月設楽原を「歩いて」いました。
何故にして今回この地についての記述が長くなったのだろうと思うと、史蹟がごく近く隣り合わせにあるからですね。
そのきっかけは11月末に設楽原付近と史料館などを相良史蹟研究会のお二人を案内してからでした(なお設楽原史蹟史料館は現在、長めの臨時休館中です)。
人物たちに繋がりがあるから・・・とだらだらと記してきましたが、まだまだ史料館のある台地上には墓や勝頼の才ノ神の陣、馬防柵のある戦闘中心部から南方の激戦地付近にも多くの遺構が残っています。
武田勢が当所長篠城を包囲するに築いた五つの砦たちなど無数に点在していますね。
昨日ブログで「野にある古い墓はどうなる?」について記しました。大抵の地元対応として以下の如く記しました。
①「動かしたらアカン」
②「ちょっと移動してこれまで通りに祀ろう」
③「他の墓と一緒にどこかの寺などに纏めよう」
私は当然に①がベストと思うわけですが時代を経て色々な方向性が出てきたりしますので②③も致し方なし・・・でしょう。
③など寺の意向さえ了解がとれればこれほどラクなことはありません。肩の荷物も降りるというものです。
孫子の代ともなれば墓があったことなど忘れ去られてしまうでしょうし。
まぁ言い方を変えればこれまでの関係を切って「寺に捨てる」ことなのですがね。
自地の畑のド真ん中に古墳があってそれを開削して畑にして収穫をアップしようというパターンは牧之原台地でも見受けられますが、それを手掛けるというのは墓があまりにも昔の話で誰の墓かなどまったく「あずかり知らぬ」ことだからです。
ただし今、古墳を壊すにはそれなりの手続きが必要ですがまぁ、「知らなかった」ことにすれば大概は御咎めなしでしょう。
ところが戦国期400年(と少々)前の件となるとちょっと違うかも知れません。
もしかするとその死者とご先祖様との間に何かの接点があったかも知れないということを考えてしまいます。
ひょっとすると(口外無用ながら)「末永く護持して祀れ」なるご先祖様伝来の遺言など伝わっているのかも・・・など想像してしまいます。
故人との接点は色々のパターンがあるかと思いますが、生前死後色々(強欲・瞋恚・懺悔・交渉・同情・人情)、とにかく自地に埋葬し、怠りなく供養を続けて来た歴史が継続してあったということです。
金子藷山の当初あった墓地(土葬)を形容するに「土饅頭」という語がありました。・・・グリム童話にもその件出てきます。
しかし今となって見ればそんな形式はあまり目にしなくなりましたが・・・。
私はその小さな土地の膨らみや、平地にポツンと残された竹藪などを見かけると「あそこには何かある」と反応していますので、助手席の奥方までそれらしき地形の違和感を目にしたとき「何かある」などと同調するほどになりました。
ただし奥方は助手席に乗ったままが多いですね。興味がないだけです。
それらしいものの画像を引っ張り出せば新羅三郎義光の墓と住蓮と安楽の墓がありました。まぁ設楽原のこの台地付近には信玄塚大小ほかその手の土饅頭(・・・土屋)が見られますが・・・。
さて、設楽原の勝頼の才ノ神の陣(観戦地)から見て連吾川の激戦地方向の真下には常林寺なる寺があります。
私はこういった厳冬期にそのなだらかな斜面を勝頼の陣から台地上まで突っ切って独り悦に入っていたことがありますが、こういったお遊びはまさにコロナ禍向き。
何せ誰にも会うことはありませんからね。
ただし真冬といっても足元不覚に陥って転倒したりします。色々な植物が繁茂して歩きにくい場所が多々あるのですが別の場所(やはり設楽原近くの極楽寺跡)ではかつて側溝に落ちたことがあります。
足を運ぶ位置がわからないのはリスキーこのうえなし。
そちらの側溝は口の開いた深めの桝と連結していて危うくそちらに落下するところでした。
足元の見えないところはやたらと入るものではない・・・と一応警告はしておきます。自分は行きたいと思うとGoしてしまいがちですが・・・
また私有地の可能性もありますからね。
どこかでも記していますが何故か私の行くところにはパトカーの巡回が来ますのでしっかりその動きを通報されていることでしょう。如何にも不審ですからね。
画像は馬防柵正面を見ながら丸山砦方向(北)に進んで常林寺へ上がる道に折れて少し行った畑の中の図。
このように畑の中に残る土饅頭の残りらしきものを見ると「何かある」と思うところ。
しかしながら畑のド真ん中。確認することはできませんし所有者への問い合わせもしていません。
ただ勝手に「そうかもね・・・」とその不自然さを思うだけ。
他と比べて少々小さ目ではありますが耕作地とあれば時間の経過とともに・・・。すべて想像の域です。
コメントをお書きください