越後の浪人 五味与三平衛貞氏 藤谷の首塚か

年末年始の寒波襲来予想を聞いて、いよいよ息子の帰省を止めてよかったと安堵しています。

自家用車での移動は「感染」の観点からすこぶる安心ではありますが、降雪・凍結となるとお手上げです。

今後も私どもは車は手放せませんが、その時期は「巣ごもりが一番」と息子にも伝えました。

 

どちらかでも記していますが私は車に乗る際といえば、感度の良い所限定でAFN放送(AM810kHz)に合わせています。

以前で言えばFEN・・・進駐軍の極東放送です。

音質は悪く雑音が入って奥方は「うるさい」と怒っていますが音楽が流れる機会が多く、それは日本のラジオ局の比ではありませんから。

それに日本のFM局は最近は特にばかばかしいトーク番組が増えてしまったうえCMも多くてくさくさしているところですからそちらのチャンネル合わせは尚更のこと。

スポンサー不要の放送局ですから企業の宣伝は少ないのは当然のこと。しかし一向に英語はチンプンカンプンですから奥方は白けた目で見ています。

 

沖縄ではどちらでも感度良くまたFM放送でしたので、その放送を内地でも要望していますが最近はインターネットでのAFN放送が聞けるようになっています。よってこのほど車上Wi-Fi機器を導入。音質の良い放送をスマホからBluetoothで飛ばして聞くようになりました。ユーチューブの音楽番組もOKです。

 

そのWi-Fi機器は今月発売されたばかりで、おっかなびっくりでの購入と取り付けでしたがハッキリ言って絶好調。

シガーライター電源ですので配線等ゴチャゴチャしますが車を乗り換えての引き回しもOK。便利グッズです。

最近ではちょっとした遠乗りにノートパソコンも連れまわすようになりました。

パソコンの電源はやはりシガーライターからの12Vを100Vに変換する機器を使用します。

 

そのAFN放送にはチャンネルが複数あって、感謝祭からクリスマス、ニューイヤーにかけて「HOLIDAY」なるチャンネルが出現します。

しかしそのチャンネルの今頃といえばクリスマスソングのオンパレード。

それにずっと合わせていれば頭の中が「めでたしめでたし」になりますね。

その番組中特に耳に残るのが時折サンタクロースの発生するあの特異な声「HO HO HO」(「HA HA HA」)の時間があります。日本人にとって違和感ありますが、それがサンタクロースの笑い声だそう。

 

そこで昨日奥方に「サンタクロースが笑ってるようだ・・・」といったのが「HA HA HA・・・は888・・・」でした。

 

 

本来8並びというのは末広がりの[八]の縁起担ぎからいえば「めでたし」の代名詞。

昨日の東京の新規感染者はこれまで最高の888人(全国3539)とのこと。10日間連続の曜日更新。

 

いよいよ東京1000人/一日が見えて来ましたね。

医療機関からは3000人も・・・との声も出てきましたよ。

神奈川の495も半端ナイ数字で息子はじめ親類たちも心配かも・・・。

 

ウィルスもそうではありますが誰も何も動こうとしないところが怖い。方策はナシで「注意深く見守る」「必要あれば迅速に」というだけ。それもオウムと同じ。

日本のラジオ局その他CMだらけの民放以上に、ばかばかしいと思う世の中になりました。

 

さて、設楽原激戦地連吾川丸山砦から宮脇への道。

台地の延長を思わす直交するその道はなだらかな起伏を残し今は車道となって当時の様子は想像の域を出ませんがおそらく当時からそれなりの道はあったはずです。

道路を付けるにあたっての開削によってその面影はわかりませんが、この地こそ連吾川流域で散々に打ちのめされた甲州軍の主たる退路となったことは確かでしょう

 

宮脇の五反田川から進路を北に変えたのが勝頼でしたが、その宮脇手前の台地でもあって勝頼本陣才カ神のすぐ北側、少々の谷部ということになります(地名としては藤谷)。

この道を丸山砦から宮脇に向かうにあたって勝頼本陣側(右手)の台地の端に五味与三平衛貞氏の墓碑があります(場所はこちら)。

 

大正三年に建碑された墓碑の正面には「傳」付き。

確証が今一つ掴めていないというところなのでしょうが、各書物に記されている彼といえば鳶ケ巣の中山砦での奮戦による討死であって何故にしてこちらに墓が建つのか・・・という点ですね。

手負いとなりながらも勝頼本陣まで辿り着いたのか、家臣が首をこちらまで持ってきてから埋葬したのかそこは不明。

死した場所に墓を建てる必要もないわけで。

その建碑以前の明治期の記録には「五味の首塚」とありますね。

 

そして五味貞氏という人の出自ですが通説「越後の浪人」といい浪人衆率いる筆頭だったという連想。

そもそも長篠城包囲網の要の一つに詰めたうえ浪人衆の頭ながら主将の本陣近くに埋葬されるというのならやはり五味という人が勝頼に重宝に使われていたこともうかがえます。

 

看板の通りに受け取れば塩瀬久兵衛がその首を埋めたということになります。

いずれにせよ他には見られない「傳」が付くことによって想像ばかりが膨らんできます。