追記 諏訪法性の甲「甲田」勝負の3週間 我関せず

昨日夕はNHKの「みんなで筋肉体操」を見ながら奥方と少々ジタバタしてみました。

テレビを見ながら体を動かそうという番組ですからね。

ただただ嘆きとトホホの声ばかりのへこたれ夫婦ですが奥方の口から名言が。

「筋肉以前、その前に関節がヤバイ」でした。

私は・・・ただ「死んでまう・・・」。

 

そして621人過去最多の東京都に全国3040人、重症578のニュース・・・いずれも過去最多。凄すぎました。

そんな数字も大抵の方は予測していたところではないでしょうかね。

各年代満遍なく罹患しているようですが世の中の皆さんは平チャラの様です。町の中の人々はどこ吹く風の様。

 

首都圏からは息子はじめ友人たち「奥の墓道氏」や「(墓場の)山女」等から情報が入りますが昨日は墓道氏が新規開店したラーメン屋の行列に並んだ件、報告をいただきました。

「旨とろ角煮味噌ラーメン」を所望したそうですが何のことはない通常価格税込990円が550円という格安キャンペーン期間。

あさましいと言ったら語弊がありますが、お得感は抜群です。

ただし行列といい店内といい「密」であることは間違いなし。

「格安」を求めそれに時間をかけてリスクの中に身を置く庶民たちですが「慣れ」というものは怖いですよ・・・

 

「勝負の3週間 ?」・・・どなたも「知らん知らん・・・」といったところでしょう。

味の方は「スープに甘みがあり濃厚。角煮が分厚く満足。」とのことです。

みんな自分のことは大甘なんですがやはり「ガースー」クンが一番に甘くみているようですよ。

 

その世界に浸っている彼が年末に帰ってくるとなるとちょっと引きぎみになりますが、そういうのはイケないことです。

宗旨的にも・・・

 

さて、昨日記した設楽原甲田の地名と諏訪法性について追記します。

勝頼の退路の進行方向ですが本陣の才ノ神から東に下りて今の東郷東小学校の裏手に。そちらから甲州を目指すとなると気持ちは「北」になりましょう。

連合軍が溢れかえる「西」は考えられません。

合戦はその西の敵本陣目がけての突破を試みたものでしたからそれを粉砕されたその時の退路は限られます。

東や南東方向といえば長篠城がありますし当初の武田軍が長篠城包囲の五つの砦を築いてボロ負けした方向でそのまま進めば遠州。当然に連合軍方の手が届いて退路を断たれていると考えるのが普通ですね。

 

ということで北の選択肢が残る最上の帰路。

昨日記したの甲田から川沿いに北へ向かうことになりますね。そちらを宮脇道というそうですが「設楽原戦場考」にその

その甲田の「諏訪法性」の記述があります。

 

「勝頼は武田家伝来の諏訪法性の甲を初鹿野伝右衛門に持たせていたが『五月温天(うんてん)ノ事故(ことゆえ) ウットオシサに依テ此御甲ヲ捨ル』」とあります。

天正三年五月(1575年6月29日)のことですから梅雨の真っ最中。ジメジメの湿地帯の暑さがわかりますし退路の道悪も想像できますね。勿論開戦場所も。

 

①は設楽原決戦場のグーグルマップの図ですが真ん中の大きい塊が連合軍主力が配置された台地でその前の湿地帯と連吾川の手前に馬防柵を巡らされたのでした。★と★が連吾川沿いに築かれたであろう主たる馬防柵があったと思われるライン。

 

先日は馬防柵北端の地について記しましたがそちらから数えてその本陣の南側、家康の陣まで続いていたとして1.5~1.6㎞。

万が一南側の平地に武田軍に回り込まれたことを想定して逆L字型に設置すれば2㎞くらい?と思うところですがね。

 

武田というと直前の長篠城を囲む五砦を築いたものの背後を回り込まれて掃討殲滅されていましたが、それと同じ手をやり返せなかったまか・・・などとと考えてしまいます。

北側の山系はムリとしてあれだけ開けた南側から回り込んでのの進行は眼中になかったのでしょうかね。まぁ眼下にお見通しとなりますが。

 

それにしても連合軍方の着陣で唸らせるところは長篠周辺で「ここしかない」というような場所であったということとこの中央の台地のウラに信長の本陣の台地(現在の新東名長篠設楽原SA南側)がありますがその、武田側からは目視できないエリアに大軍を隠しておいたということも「上手い」戦法です(画像右川の台地に武田側が布陣)。信長本隊の存在をそう表に出したくなかった風を感じます。

 

若さだけの血気盛んの武田勝頼に「一気に決着をつけたい、今こそ雌雄を決せられる」と思い込ませ、実際にこちらに誘い込めたことが連合軍の勝利に繋がったかと。

通説武田15000に織田30000+徳川8000という勢力図ですが武田勢は後方(長篠城)にも展開させていましたので武田の15000は総軍ではないはず、そこを勝頼に「勝てる」と思い込ませたのはその兵力の差を見せないようこっそり台地のウラに隠してむしろ脆弱さを表立たせたに相違ないでしょうね。

弱いから馬防柵の奥に引っ込んでいるに違いなく、天下にその名を響かせた甲斐騎馬軍団で十分に踏みにじることができるという錯覚もあったでしょう。馬防柵から台地の裾のスペースを考えるとわかるような気がします。大軍をそちらには並べられませんし。

 

第四次川中島の戦でも陽動作戦に乗って意表を衝かれて手痛いダメージを被るなど武田の策というものが毎度甘いのか・・・とも考えてしまいます。