深くて重いただし遠くないテーマ ゲートキーパー

昨日はゲートキーパー研修会へ。

会場は片浜の釣徳寺本堂。

今年はヤスデの大繁殖があったとのことで堂内はそれらのお出迎いがありました。

牧之原市健康推進課の主催で本来ならば5月に開催されることになっていたそうで新コロの影響で先延ばしとなっていたものです。

とはいいながら密になれないということでお寺関係ですと釣徳寺さんと私だけ。「少数厳選」とはいうものの職業上坊さんは参加すべきものと考えていましたので次は仏教会全体のテーマにしたいものです。

 

他の参加者でいえば牧之原消防署に牧之原警察署からの参加がありました。

ゲートキーパーというと耳慣れない語ですが、あのWHOでも通じる現代社会にとって一大テーマ「自死」と積極的に関わりその選択を思量する人を理解しできるだけより良い方向にともに歩を進めていきたいとする考え方です。

その研修会ということはその「聞く」「寄り添う」人材を養成したいという企図が市の方向性(勿論、県・国も)にありますが、私が今回この会に招かれたといことは阿弥陀さんから「お前もしっかり勉強してこい」のお達しと感じて図々しくもこの重たく深いテーマの講演をお聞きしに参ったのでした。

 

何度か拙ブログにて記していますが当流では

2023年の「宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要のテーマが『南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう』の通り命というものの「重くて深い」といったところを旗印に掲げていて、やはり最近の「自死」の多さに関して問題提起しているものと感じていました。

 

私どもでは「自殺」という表現はせず「自死」という言葉を使いますが当山過去帳にもその文字は散見されますし、あまりに健常的生活を送っている者にとってはどうしてもその文字類についてはついつい自分とはかけ離れたことであると思いがち。

しかし私が見させている中、その「健常」とはただの一時的なものであってひょっとするとただの錯覚なのかも知れないと思えるほど「今の私」の環境は危うく儚いものですね。

まるで「アリとキリギリス」の如く。

 

講師のあげた喩え「最後の藁一本がラクダの背を折る」お話の通り人はちょっとした何か、他者から見れば些細な、他愛のないことと思われるような物事に強く傷つき何とはなしにその「スイッチ」を入れてしまうといこと、合点いたしました。

また、坊さんとして凝り固まった私の思う「人のあるべき姿」(それはしばしばポジティブすぎまた軽々しくあって相手の心に染みこむことがない)をおしゃべりするだけであることを反省させられました。

ただただ耳を傾けて相手におしゃべりをしていただく。

その件、たびたび言われ続けて来たことでしたが、その主導は私ばかり。

 

次回はもっとたくさんの人たちを集めての開催を希望します。

坊さんこそ直結しているテーマですからね。

 

おかげさまでとても貴重な情報を得ることができました。

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (木曜日, 29 10月 2020 08:55)

    龍典くんの演奏は無しですね。彼は頑張っています。
    高校生の頃より落ち着いて(当たり前ですが)公私ともにすごいなと思います。
    御朱印も立派なものが用意されてるとか。
    先日、中津川の苗木城へ行ってきました。山城とは言ってもただの土塁があるのとは違い
    圧倒されました。駐車場係の案内も親切で良かったです。

  • #2

    今井一光 (木曜日, 29 10月 2020 18:14)

    ありがとうございます。
    本日夕方も「御朱印」でテレビ出演している姿を拝見しました。
    当日は音楽の演奏はありませんでしたが、いろいろ精力的に動いていますね。
    町おこしの方も地域との連携する様子がわかりました。
    苗木城はかなり前に友人とブラつきました。景色が抜群でした。
    たしか橋のともとあたりにあったうなぎ屋に入った事を思い出しました。