飯盛山城は四条畷市 生駒山系南北半島状尾根

昨晩の「歴史秘話ヒストリア」は「足利ブラザーズ」と題して13代義輝と15代義昭にスポットが当てられていました。

将軍義輝の追い落としに攻め込んだのが三好長慶でした。

義輝は朽木の聖興寺に退去するなどして何とか御内書を各地に連発してバックアップ網を構築し何とか将軍として京都に戻ることができますが三好長慶亡きあとの混乱、永禄八年、三好三人衆によって殺されてしまいました。

そして義昭は頼りにしていた武田に上杉に先立たれての足利家滅亡という流れ。

「生者必滅会者定離」が歴史であり、人それぞれの無常を感じます。

「諸行無常」であるからこそある意味人生は面白くなるのですがね。その人の死によって他が引き立つ・・・。

 

永禄十一年に織田信長が義昭を担いで難なく入京できたのは14代将軍となった足利義栄が三好長慶亡きあと戦闘が治まらない

荒廃した京都ということに尚当人の健康不安。

不安の中入京できずに高槻で過ごすうち衰弱して死したこと、そしてやはりその前の永禄六年(1563)に三好義興が芥川城で急死し翌年(1564)に失意のうちに三好長慶が飯盛山城で亡くなってしまうというタナぼた的幸運」とブログにて記しました。

 

畿内覇権を手中に収めたかと誰もが思っていた三好長慶が後継者である息子の突然死によって失意に陥って体調に変異をきたしたというのは、信長の本能寺で滅するなどの激変とその派手さは異なるもののそれぞれの人生というものが如何に危うくて殆ど偶然がもたらすタイミングで容易に変動するものであると知らされるのですが、その三好長慶の失意に一つ加えておかなくてはならない悲劇がありましたね。

 

長慶の弟の安宅冬康の件です。

三好長慶が畿内の覇権を制するまでに至ったのはその兄弟たちの力なくしてはあり得なかったわけですが、細川晴元の臣、三好

元長を父に長男の三好長慶以下三好実休、安宅冬康、十河一存、野口冬長など巧みに有力他家を取り込んだ一族一統各補完しあうシステムが機能していました。

 

やはりその「万全」に大きな綻びが出たきっかけは長慶の子の三好義興が永禄六年に亡くなってしまったことはいうまでもないことですが、その長慶最大失意の直後永禄七年に弟の安宅冬康を飯盛山城に呼び出して自害させたこと。謎の中の謎です。

何故ならその兄の三好実休は永禄五年、十河一存はその前年に戦

死していたのですから。

状況から考えられるのは精神的に追い詰められたうえの狂気だったといえるのかも知れません。

 

さて、飯盛山城は南北朝動乱期に適宜陣城として登場しているようですが、居城としての築城は畠山家臣木沢長政で以後戦国期特有の寝返り裏切り、下剋上そして宗教勢力(一向宗、法華宗、根来等)入り乱れ、利害交錯して利用し利用され離れたり付いたりの謀略暗殺の時代の中心地として日本の戦国史に外せない城とも言えるかもしれません。

そういった悲劇的主人公、三好長慶と畿内阿波の争乱を描く大河ドラマの実現には期待したいのでした。

 

私は野崎城からの登城を直線的行く道を試みて主郭付近を散策したことがありますが、この城を満喫するのはその南北に連なる尾根を進みきり、当時の登城口としてあった4つほど残る道をそれぞれ進み支城群と各郭を確認していかなくてはならないでしょう。

 

それでは飯盛山城の城郭大系から地形についての記述を。

「飯盛山城は永禄三年に三好長慶が入城して史上有名になる。河内国と大和国との間は生駒山地が南北に走り国境になっている。飯盛山はその生駒山地の北西支脈に位置しており城はこの支脈上に築かれている。この支脈飯盛山は東は滝谷によって完全に生駒山地と分離されており、生駒山地の半島の如き存在となっている。

~飯盛山城の郭の配置を考えると生駒山脈から延びる北河内地方特有の痩尾根に南北縦列に郭を配しながら東西の急な山形には郭を形成できず河内平野および大和山地から滝谷に対する防衛の甘さはどうしても強めることはできなかったと思われる。」

 

私が進んだコースは「竹林コース」。

それを抜けきれば⑩にNHKの施設が見えますがこの城でもっとも広く削平された郭で「千畳敷」と呼ばれています。

その北側に高櫓郭に本郭と連なります。

千畳敷郭や南丸という施設は虎口(場所はこちら)から見て約5mほどの段級があってそれが南側からの先端の防衛ラインということになりますね。

登城口先にある野崎城は大東市、飯盛山城は四条畷市になります。