野崎観音の麟鳳 「観音の 甍見やりつ 花のくも」

ようやく秋晴れの心地よさ。

台風が去って晴れが2日続きました。午前中は暑い暑いと言いながら庫裏の障子と襖の手入れをする奥方を手伝って午後遅くからは浜岡の叔母の家へ向かいました。

先日も記しましたが当家の「86歳」はまぁ「往生の齢」といってもいい数字。

十分目出度い年齢です。

そして丁度叔母が86歳になりました。

年齢の数えでいえばもはや「87」ですからその「壁」は超えています。

その齢で独り暮らしですから、今のところ「うまく維持」している方ですね。

4~5年前から市の方から「施設入れろ」コールが重ねてありましたが何しろ本人が「絶対に行かない」と言うのと痴呆がそう進んでいないことから私の方も「なるようにしかならない」と好きにさせています。

そうは言ってもおカネがかからないのが現状で今後施設入寮だとか病気を得て入院とかになれば出費も時間もかなりのものになるでしょうね。もっともその時の資金は叔母さんの年金で賄えるワケですから心配はそうはいりませんね。

この叔母のお元気が続けばその大判振舞をたよりに美味しいものを食べさせてもらうというのがいつもの私たちです。

元気な叔母がいる限りそれが続くワケで、最近はますますと大事に思うようになりました。

 

叔母の好物はうなぎですから、私はたまにはその「コレステロールの塊」もいいか・・・とお昼を抜きにして鰻屋「野崎」の開店直後に3人で入ったのでした。

野崎の濃いめのたれにはもう慣れましたが私の好みと言えば小田原の「松琴桜」の上品さ。

小田原時代の父はといえば「柏又」でしたが・・・。

コロナで小田原には墓参り含めてかなりご無沙汰していますが東華軒の各弁当と伊勢谷のだんご、みのやなき今は鈴廣のかまぼこ等楽しみたいものです。

 

うなぎは横浜に居る息子もわざわざ小田原「松琴桜」まで友だちを連れて贅沢をしに行くほどで彼もその味が忘れられないようです。

 

さて「野崎」という名が出ましたので無理くりですが大阪河内の野崎観音に戻ります。

拙ブログでは以前さらっと記しましたがその観音堂付近に掲げられた扁額と句碑を。

 

「凡人の幸せ明日をうたがわず」に続き芭蕉の句碑が建っていました。

「観音の  甍(いらか)見やりつ  花のくも」です。

こちらは特にこの野崎観音のことを詠んでいるワケではないのですが、その地は十分にその雰囲気を醸し出しています。

世の観音堂にはそれぞれの地元有志によるこの句を記した建碑があるようです。

 

観音(観世音)といえば慈悲の菩薩。

阿弥陀三尊形式ですと阿弥陀さんの左脇に蓮を差し出してくれるのが観音のイメージです。

観音信仰は古くから庶民とくに弱き者たちの心に深く浸透しますが、こちら野崎観音(伝行基作 十一面観音)への「野崎参り」の風習は地元では有名とのこと。

息子の大阪出身の友達がいますのでその「野崎参り」についてどんなものか聞いてみようと思います。若いから無理か・・・

 

そしてこちらにも「麟鳳」の文字が。

今となっては当たり前のことですが「平和な世」こそ昔から庶民の願いなのです。