元はと言えば「大柿」 竹腰摂津守重直(道鎮)

昨日はBSの「寅さん」を視聴

初めて見る作品(1981年)でした。焼津の漁港のシーンと静岡弁の連発シーンも・・・

若い頃はそれに見向きもしませんでしたが齢を重ねたせいもあってか新鮮さ溢れる昔懐かしい画像(特に車たち)見たさに必ずチャンネルを合わせるようになりました。

 

古いものでもデジタル処理した作品をこうして毎週放映してくれるとなればチャンネル合わせしない手はありませんね。

古い作品ですから出演者は殆どまず亡くなっていたりしてそれだけでも珍しいことこのうえなし・・・

 

昨日のテーマは「死」でしたね。

チョイ出演でテキ屋の仲間として2012年に亡くなっている小沢昭一が「末期の病」の設定で登場していました。

元気にしていた友があっという間に亡くなってしまうという現実を目の当たりにしつついつもの単純でぎこちない寅さんの人生の劇場が始まるというスタートでした。

寅さんもそうでしたが小沢昭一は私の父のお気に入りの人でした。人生最大無常である「病」と「死」について皆さん共通してその道を歩んでいったこと、今回はただの懐かしさだけを感じたワケではありませんでしたね。

 

特に印象的だったのは昭一扮する病床のテキ屋。

医者に見放され退院自宅療養というところ、奥さんを寅さん接待用の買い物に出したあと布団の下から「エコー」らしきタバコを出して奥さんにこっそり一服するというシーン。

まぁその絵からこの人は「肺がんなのかな・・・」などと視聴者は想像するわけですが・・・。

 

「エコー」といえば祖父が亡くなるまで吸い続けていました。

父はずっと「ピース」で2代続けて専売公社に貢献していましたが、私の代でその付き合いは断たせていただいています。

お話に限らず「死」についてはもう殆ど毎日のように考えない日はないといってもいいほど私の頭の中を渦巻いていますが、この私のタバコに触れない人生と先代、先々代のヘビーな付き合いを比してみて、どう考えても「私の健康寿命」の価値は高いのだ・・・などと考えがちになります。

しかし・・・私の知っているところではそんなことは案外関係ないのかも・・・というのが現実です。まぁすべて、なるようになれ、勝手にしやがれ・・・ですが。

 

先代先々代ともともに86歳で亡くなっていますがどちらも超が付くヘビースモーカー。

私はうまいことやればそれに+αがあると思うのが常道。それが無ければまず「オカしい」しでなかったとしたら他の不摂生。

3者一番違うのは食生活でしょうか。

飢えの無い「おいしいもの」過多の生活は寿命を縮めるはずです。

しかしそれ(86)以上生きていたとして「辛そう」な気もしないでもありません。あの池袋の大事故を起こした89歳のお爺さんを見ても尚更。

 

同じ遺伝子を持った三代が喫煙習慣大とゼロでどう違いが出るのか・・・は見ものですがね。

「86」のハードルは結構高いものがありますが。

尚、この私・父・祖父三代は飲酒について(親戚一同含めても)ゼロ習慣ではあります。

遥か昔から当家には下戸の遺伝子が流れ続いていることは間違いないでしょうね。

 

ここで「86」で数字遊びをあせていただければトヨタで数少なくなったクラッチ車があります。

私が次に車を乗り換える機会を頂けたとしたらその車を所望したい旨奥方に伝えたところ即却下されました。「みっともない」がその理由。

「86で86」カッコいいじゃあないですか・・・。

 

さて、昨日は「転がった大柿」と「大垣城」を掛けた言葉遊びについて記しましたが実はその大垣といえば「オオガキ」の歴史は深くそもそも「大柿」の方が発祥。

その家康と住職との会話に出て来た「オオガキ」といえば近隣

地名だけに「当然」のいつもの聞きなれたジョーク風だったのでしょうね「大柿落とし」は。となると興のためにわざと落としたか・・・

 

大垣といえば東海道沿線に住まった経験のある者としては夜遊びの救済車両(東京発2330)、「大垣行き」の名称で忘れることはできません。

その名が江戸時代以前となるとその「大柿」が真正な名称だったのでした。

また美濃には「小柿」という地名と家の名のりがあります。

 

昨日記した立政寺本堂裏の墓域には興味深い墓石が並んでいますが、その中に「竹腰摂津守之墓所」との石標がアピールしていました。

そちらの四ツ目紋の通り、竹腰氏は近江佐々木氏流大原氏の系(江州佐々木南北諸士帳 伊香郡)で「大原判官二男重綱子」と

あります。

尾張の竹腰に入ってその名を名乗るようになってから美濃での活躍。斎藤家に仕えて道三と高政が分かれた親子対決の際、高政側について長良川の戦いでの先陣を切って討ち死にしています。

明智光秀が稲葉山城に出入りしていたとなれば当然にこの竹腰

重直(道鎮)とは顔見知りだったはずですね。

 

 

この竹腰の系に関しては斎藤家が美濃から排除されたあと帰農したといいます。

ただし家康の側室に「お亀の方」が居てその人が産んだ子が尾張藩の初代藩主で徳川義直。

そのお亀の方が家康に見初められる以前、竹腰正時と言う人に嫁いでいて死別したわけですがその際、竹腰正信を産んでいます。

 

その竹腰正信は徳川義直の異父兄ということになりますが家康

に召し出されて出世。

成瀬藤蔵正義の弟(通説)正一の息、成瀬正成とともに尾張附家老

として尾張家を補佐。両家ともそのまま続いて明治を迎えています。

 

そんな意味からしても昨日記した葵御紋はあり得るワケで。

尚これも昨日の画像の最後に関白二条良基(二条家5代目)の名がありましたがこちらは成瀬家関りでした。

大河ドラマではその系の二条晴良(14代目)が唐突でしたが登場して一乗谷の義昭元服に京都から上がって立ち会っていました。今後のドラマの進行に関係あるのか不思議。

 

こちら立政寺のある地域が二条家が荘園領主として口や顔を利かせていたということも義昭が入ったことの理由の一つにあげられるかも知れません。