愛馬への報謝 川越の小島蕉園 へいさらばさら 

迷走しそうな台風14号の突然の発生は困りもの。

それ以前の週間予報は晴れのオンパレードでしたから。

これで大切な1週間が台無しになりました。

その動きときたらのんびりで、気象庁のスーパーコンピューターも厳密コース解析は不能のよう。

予報円は大きいままですし、四国沖で90度変針して東海・関東にやってくるような予想は唖然。

どちらにしろこの週末は荒れ模様になるのでしょうが、この手の台風というのは温帯低気圧になったとき停滞して前線までつけて長雨に繋がりますのでそうなると週明け以降の空模様がまた心配になります。

この秋、爽やかな秋空の下、山城の一つや二つ歩いてみたいものです。

しかし相変わらず連日のクマ出没の報道。

何やら人を恐れない「新世代」のクマが出現しているようで、平チャラで民家や街区に登場するというもの。

ヒトを恐れぬ個体は厄介です。通常なら山ではヒトと「出くわす」前にクマが察知して逃げるというその習性を期待して歩くのですが、それが通用しないとなると私がその生物との遭遇することほどの不幸というものはありません。

その点、重ねて注意して山に入らなければなりません。

 

クマとヒトの関わりはその生活圏が重なるもの同士、ライバルとして長い付き合いをしていることは確かですが、それ以上に親しき動物といえばやはり馬・牛たち。

 

昨日は曲金の馬頭観音堂について記しましたがそちらは梶原景時の愛馬「磨墨」ほか合戦で「討死」した馬たちの供養のために建てられたものでした。

地方の野山は勿論街区の片隅に多数散在する石仏といえば馬頭観音ですね。

それだけ古の人々の多様な思いが伝わるというものです。

 

馬と言えば武家の道には欠かすことができないアイテムですし農耕でもその力に頼るのが当たり前の時代が長くありました。最近出回っているエンジン(自動車)の出てくる遥か昔から私ども人間はお付き合いいただいている親しき仲間ですからね。

 

さて先日川越ペンクラブの「武蔵野ペン」なる文芸誌の紹介をいただきました。

その中に田中氏の短い記述には川越時代の小島蕉園の足跡の一つが見えました。

小島蕉園の活動といえば第一に甲州そして江戸とこちら遠州相良が思い浮かびますが母思いの蕉園は江戸の火事頻発を嫌った母の為に短い時間ながら川越に転じています。

 

その書籍によれば蕉園が碑銘を記したという「瘞馬骨碑」というものがあるということ。「瘞」は「埋める」ですから馬の骨

を埋めるということですが、その内容はその馬にまつわる奇談。

転記すれば

「(川越の)観音寺近くに日頃侠気持に富むと評判の増田半蔵なる者がいた。ある晩夢に馬が現れ『我は元は貴人の乗馬として大切に飼養されていたが、今や捨てられ屍は無残にも野晒のままである。願わくは我が屍を埋葬せよ、その報いに我が脊梁にある珍玉を汝に遣わそう』と告げた。付近を探索すると馬屍と鞠ほどの玉があった。半蔵は観音寺に屍を埋め、その上に里人の合力によで馬頭観音を祀り、碑銘は同郷の士、小島蕉園が撰文にあたった~」とあります。小島蕉園はそういった奇談は結構好みのようで「蕉園渉筆」の中にもその手の不可思議な話が散りばめられていましたね。

 

この中の「馬の脊梁にある珍玉」というものには実はしっかり名前があって「へいさらばさら」。

元はポルトガル語ということで牛馬の腸の結石がその正体だそうです。

「鮓荅」(さとう)が日本の言葉。初めて知りました。

 

画像は既出のもの含めて牧之原周辺の馬頭観音たち。ただし⑥は素朴な作りながら六手観音のよう。馬頭観音の頭には顔の長い馬面が見えますが螺髪等と混同することもあります。

 

⑦⑧は野の辻によく見られる典型的な馬頭観音のあり様でまずは覆堂の中ではなく露出しています。

かつては人々の力となって田畑で働き、ともに生活し愛された生き物の一つでした。

どちらに行ったとしても馬小屋は住居の隣に設けられていた歴史がありました。

 

やはりそれを思うと芭蕉のあの句が思い浮かびます。

「蚤虱 馬の尿する 枕もと」

 (のみしらみ うまのばりする まくらもと)

 

旅の宿を求めて農家を訪ねれば家主から「馬小屋で良かったら・・・」ということだったのでしょう。

馬小屋を借りられることは当時としては最大の親切だったのでしょうね。

もっと以前でいえばキリストも聖徳太子も誕生は厩。

人類はいつも「馬と一緒」だったのでした。