金沢卯辰山切支丹遺構 明治維新後の弾圧継承

しかしケツの穴の小せえ新しいソーリ殿だ・・・と思わされたのが今回の日本学術会議のメンバーの非承認の件。

「耳障りな奴には耳を貸さない」「オレ様に逆らったらクビだ」を宣言したようなものですからね。

人の良さそうなオッサンのイメージでしたが、腹の中は真っ黒だったことがよくわかりました。これが「アベ踏襲」の表現の一つだったのでしょう。

 

私は政治屋のセンセー方より科学者の言葉を信じます。

これまで政治屋の私利私欲の非論理的思考(仁に非ず)を見せつけられていますからね。

ここは何とか学者たちにひと踏ん張りしていただきたいものです。そんな身勝手な「政」を振りかざされるのは小市民にとってたまりません。

 

気持ちいい秋の空の下、昨日は奥方の所要に付き合って静岡市内に向かいました。

奥方を降ろしたあとは駅前の駐車場に車を停めて国道一号線沿いを独りでブラブラと。大した目的はありませんでした。

途中歩道に溢れんばかりにはみだした人の塊に出くわして「これではマズイ」と咄嗟に車道を歩くはめになりました。

ディスタンスの確保のためですが車に跳ねられたらどうするんだよ・・・とムカっとしながらその施設を見やれば私が初めて知る新興宗教の建屋がありました。

 

平日の真昼間にご執心繁盛の様子、感心させられましたが、監督管理者として信者たちを公道にはみ出させたら無関係の人を圧することになりますからそのコントロール無配慮に閉口させられたという次第です。

 

お隣の韓国では当初宗教団体のグループからクラスターが発生するなどその手の組織の三密に関して結構にいい加減な感じが漂っています。

では拙寺はどうするか・・・分散しかないですね。

まずは報恩講をうまいことまとめていかなくてはなりません。

 

さて、昨日の金沢卯辰山の続き。

時折ブログではキリシタン禁教令や江戸期の彼らへの弾圧について記していましたがここ金沢の地にはその迫害の歴史のエンディングというか明治維新直後のその異教徒たちへのスタンスがわかる遺構があります。

「異教徒」などと記すと他宗、特に仏教以外の宗旨を蔑視する姿勢とも受け取られかねませんが、ここは当時カトリック宣教師たちが仏教徒をそう称したことからの同表現です。

 

江戸幕府のキリシタン禁制の施策については明治政府は前政権同様にそれを踏襲していますね。

長崎の浦上山里村の農民を1868(明治元)年から、金沢などに分けて流配しました。

勿論囚人扱いですね。

金沢には明治二年から金沢藩預けとして約500人の非改宗者がこちら卯辰山に明治六年まで「幽閉、収監」されていました。

そのうち100人余人が命を落としていますが、この山に埋葬されたそう。

 

金沢の地にキリシタン弾圧の歴史があったということ、明治初期までその手の非合理が行われていたということは記憶に留めておかなくてはなりません。

ただし拙ブログでも何度か記していますが1500年代中期にカトリック宣教師がやってきて以来その日本におけるスタンスはキリスト教教化による覇権でしたので、ある意味当時のその宗教活動を抑え込むことは日本に於いて必要だったことは確実です。

 

復習すれば日本以外の国々(植民地)では「キリスト教会の外には救済はない!」の思想を刑罰をもって庶民の心の掌握を試みました。

その件不審と思われる方はインド、ゴアの異端審問についてお調べください。

ゴアのヒンズー教徒への弾圧は筆舌に尽くしがたかったと聞きます。 

当時のポルトガル君主の命として宗教は勿論、言語の統制を行って従わない者たちには刑が処されたと。

 

インド、ゴアには「haathkataro」(ハースカタロ)の柱とか「hand cut pillar」と呼ばれる処刑用の柱が立つ場所がありますが、その「柱」についてあるサイトの説明文を和訳すると「キリスト教の異端審問官がヒンズー教徒を結びつけて生きたまま燃やし、無力なヒンズー教徒の手を切り吊るすために使用されました」と。

柱は破壊したヒンズー寺院のものを使用したといいます。

(現物画像・・・こちら)

 

日本に禁教令が出されず、カトリック宣教師の思うまま、言いなりとなっていたら同様の事が起こっていたことは間違いないでしょうね。

ここにも「神風が吹いた」とこじつければポルトガルがスペインに併合されてからスペイン国王フェリペ二世が死に、秀吉がその直後にこの世を去ったということは素晴らしいタイミングだったのかも。

これは海外、特に中国への覇権が頓挫したということで、世界的戦争時代の一時的終焉にも関わっているということかも知れません。

 

尚オランダがスペインに代わって台頭し家康の背中を押して幕府を開いたことも。

関ケ原も大阪の陣もキリシタン大名一掃のステップと言っても過言ではないかも知れません。

 

オランダはスペインのキリスト教を使った覇権、世界の富の奪取という政策ではなく、ハナから「商売」のみという交渉でした。

それを見据えたうえでオランダのみ外交を許容したということです。