狛犬は犬でなくて獅子 それも神社に限らず

静岡人は今よく言うリテラシー・・・認識理解力ある県民性なのでしょうね。

非常事態宣言が出てから誰も彼もコロナにかかってはイケナイと人一倍自粛生活を奨励する生活となりましたが、政府がそれを解除してあの「Go To ~」を強く進めるようになってからこれまでの自粛の雰囲気がガラリと変わって比較的大胆な行動を取るようになった感あります。

各人性格によって受け取り方は違うのでしょうが、今は一時の緊迫感はガラリと変わっています。

 

短い夏休みに子供たちを楽しませようという親たちのはからいもあるのでしょうが、飲食店は家族連れで一時からすればウソのような混みあい。

各地帰省客閑散の報せはありますが、それならと地元で大いに盛り上がっているような・・・。

余談ですがお盆(ウラバンナー)はそもそも自制・自粛、立ち止まって報謝の敬礼をする期間でハメを外すことではありませんね。昔から何か新しい事、楽しそうな事、少々の無茶をやろうとしたとき親たちから「お盆だから`よせ`」と言い聞かされたものです。お盆は反省して手を合わせる時間。

それを「墓参り」の供養を主に思い込んでいるところがお寒い。おエライさんが体よく、

「先祖供養ですから止められません。どうぞ行ってらっしゃい・・・Go To 故郷」ほどの胡散臭さはナイですね。

 

 

金曜日に懸案の生垣を刈るトリマーについて菊川の店で実演会があるというので出向きました(結論は購入は保留)。そのついでに昼食を外食にして・・・ということで掛川市内国道1号線を走りました。

牧之原市では未だ感染者「ゼロ」を継続していますが、今その第一号にならないために当家では「東は大井川、西は天竜川を渡るな」(静岡と浜松に行くな)が合言葉になっています。

 

よってその辺りにいて奥方が「寿司喰いてぇ」と言い出したため、回転ずしの店を探しながら2件ほど回ったのでした。

1件目は1時を回っていたにも関わらず、またこのご時節にもかかわらず、目を疑うほど溢れるばかりのお客ひしめく待合状況を見て即退散。待たされることよりも例の「三密」の教科書のようなものを目撃。怖すぎです。

 

そこで2件目の店へ。

5分程度待たされましたが、待っている間に私は「これほどのノー天気で果たしていいのか・・・」と自問していました。

食事中の感染は特に顕著ですからね。

そして「アルコール消毒をお願いします」の案内とともに着席した位置がなんとお寿司の回るレーンの最後の位置。

そこでざっと客を眺めてみればマスクを外して(当たり前ですが)楽しそうにおしゃべりしながらレーンに流れる寿司を見定めていました。

 

20~30人程度のおしゃべり空間を通過したあの寿司たちを口にしたら「まずコロナ」との確信を得て、さすがに「こりゃヤバいぞ」と席を立って退散させていただきました。

 

憮然とする奥方には「夕食は乃庄さんでお寿司にしよう・・・」となだめましたが、この今の静岡人の「緩み」は政府の「Go To ヤルヤル」の「大丈夫」の雰囲気をしっかり感じ取ってしまっているのです。

これは日本人全体にいえることなのでしょうが静岡はこれまで抑えられていた分、この休みで感染者突出となるのでは・・・と危惧する次第。予想が外れればいいのですが。

取り敢えず「リスクは取らない」それが今の私の在り方です。

 

 

昨日は児玉先生の「悪循環サイクル」について記しましたがあの「宣言」(ソーリ殿緊急)の解除がいかにも早すぎた事、感染者低下傾向の時に楽観論に浸って検査数を増やさなかったこと、東京都知事と首相官邸のギクシャク主導権争いはいくら何でもみっともない。「恥」の似合う国政。

 

このお盆期間は当然に東京都内の感染状況は少なくなっていくことでしょうが、これから大阪型、名古屋型、福岡型、沖縄型として地域の変性コロナが繁盛しいずれ静岡型、浜松型、掛川型などのウィルスのエピセンター化が進むのでは・・・。

そこまで広がったとすればこの冬から来春は一歩も外を出歩けなくなったりして・・・。

 

そう考えるとすれば、お盆明けからこの9月10月がもしや人生最期の墓巡りの機会になるかも知れません。

世の流れは政府の意向をかなぐり捨ててPCR検査を進める動きにシフト(世田谷モデル・長崎モデル)していますので、脱政府で何とかしてくれるとは思いますが。

 

それではいつもの続き、一連の石像美術のおしまいになります。

石造の「鳥居と狛犬」はイメージ的にそれらは神社を思いつきますが、両方ともそれに限りません。

鳥居は墓地の入口にあるというのもよく見ます。ただしバランスが悪いため経年で倒壊するなど古物遺品はそう多くありませんね。

 

 

石造美術の分類    「奈良県史7 石造美術」

清水俊明  奈良県史編集委員会

16 石鳥居

鳥居は本来神社境外から境内に入る浄域の出入り口に建てた門であるが神社だけでなく大阪四天王寺西門の石鳥居や墓地入り口に立っていることがあり、大和の古い墓地にはよく見かけることがある。

鳥居は左右二本の円柱を建て、その上に笠木・島木を重ねて載せさらに柱の上方に貫を架け渡し、貫と島木間の中央に額束を立てた構造からなっている。しかし近世の鳥居には種々の構造のものが造られている。

石鳥居の古遺品としては平安時代後期と推定されているものが山県市荒谷石鳥居、同市小立明神鳥居にあり、大阪四天王寺西門石鳥居は永仁二年(1294)に、もと木造鳥居であったのを西大寺忍性が石造に改めたと伝える。

大和地方には古遺品が見られず、神社・墓地に建つ鳥居はほとんど江戸時代のものである。

古調を伝えるものは柱が太く柱間の広さに対し、背が低いのが特徴で室町時代のものは笠木の反り、柱の太さに古調があり江戸時代の物は柱の上方が内に狭まり、笠木・島木の反りは両端で強く反り上げ、先端を斜めに切ってとがらせる特徴がある。

 

 

17 狛犬

狛犬と呼ばれ神社の社殿の前に置かれて親しまれているが狛犬は獅子のことであり、その起源はインドで仏殿や仏像の前方に置き守護的な目的をもったものとして使われていたもので紀元前三世紀、阿育王の建てた石柱(仏教宣布の詔勅文を刻んだ柱)の柱頭蓮華上に獅子が彫られており、マトゥラーの二世紀仏陀座像の台座にも獅子が配置されている。

百獣の王として威厳を備えた獅子の姿は権力の象徴であり宮殿・陵墓・仏殿に早くから飾られていたのである。

獅子はやがて中国に伝えられて唐獅子と呼ばれ、朝鮮半島では高麗犬・狛犬と呼ばれたものが、わが国に伝えられたようである。

わが国最古の遺品は兵庫県古法華三尊石仏に浮き彫りされた石獅子であり奈良時代前期の作。

その後狛犬の遺品は少なく平安時代の木彫りのものがある。

東大寺南大門の石獅子一対は建久七年(1196)宋人石工の作で宋様式を多分に見せた表現である。

石造の狛犬は鎌倉時代から遺品が増えてくる。

三重県伊賀新大仏寺本尊台座の浮き彫り獅子も優れた作である。山辺郡都祁村(つげむら 現奈良市)水分神社狛犬は、前者宋人石工の造った宋風の狛犬とは異なり和風的な狛犬で鎌倉末期の作と考えられている古い石狛犬である。

このような古い狛犬の特色は顔を真正面に向け、顔は小さく、前脚を真っ直ぐに立て、胴はよく引き締まり、毛線は伸びて巻き毛が少ないなどの特色がある。

南北朝以降になると狛犬の彫刻も、他の石造物と同じように退化してくる。

権力の象徴であったその雄姿も愛玩犬のように小型化しかれんな作風となってくる。