他に類を見ない しかし江戸技術か 般若寺石灯籠 

各地で一日の感染者数最多更新のニュースが入っていました。しかしこの猛暑の中、自由を制限され、もしやの自身重篤化の恐怖と発熱等症状発生など体調不良は最悪でしょうね。

家族がいればそれらへの心配もあります。

 

新コロの怖さは当初の高熱と呼吸困難ばかりがクローズアップされていましたが、実は発症ナシで感染源になるところ。厄介なウィルスです。

拙ブログでも社会全体に検温計の普及が大切であること、またその後それはあまり意味が薄れてしまったことを記していますが、これは発熱の有無は陽性陰性に関わらないということからですね。今あちこちで行われて「安心」をさも提供しているかのチェック項目「検温」について、それはかなりの気休めであるかも知れないということです。

 

それを無意味とは言えませんが「気休め」かも知れないということを言い出せないのは何故なのでしょうね。発症しない陽性感染源の対応ができていないのに・・・

経済を動かしたいから・・・に違いありませんがその発想のウラにその苦痛の大小はあるものの市民の犠牲というものが控えているのです。

 

さて、`ヒロシマの日`の昨晩はNHK22時から「原爆投下・全記録」を視聴。

アメリカの原爆開発の動きというものを日本は把握していたというのは第一の驚き。しかし当時の内閣書記官の証言によればその見通しは楽観的で、「アメリカがその手の非人道的な爆弾をイキナリ落とすワケがない」というもの。

今の政府と同じかも。「感染爆発などおこるワケがない」・・・自己都合による甘い認識。

 

発行されたポツダム宣言の取り扱いについてダンマリを決め込み(「黙殺」と当時の記事)時間をいたずらに費やしてしまったのでした。そしてその後`ナガサキ`の「2回目」まで時間潰しの躰をやらかしたのでした。

アメリカは「日本政府に理解させるためにはあと1回落とすことが必要」とその行動の正当性を主張するまでになったようです。ちなみに3回目は皇居案が出ていて、アメリカとしても「じゃあ誰と敗戦交渉するのだ」と揉めていたよう。

 

何とかそれは回避できたものの日本政府は2度に渡ってあの投下爆撃を受けなければ何もかも「わからなかった」ということです。たくさんの犠牲を待たずして手を打てなかった後手後手の様もいつまでたっても治りませんね。

「爆弾の下」の映像を見て、証言を聞いて、思わず手を合わせてしまいました。ただその惨状に人間として「ごめんなさい」としか言いようがありませんでした。 

 

 

本日も昨日の続きで石灯籠。

画像は奈良般若寺本堂前に建つ花崗岩製276㎝のもの。清水俊明氏によれば

「基礎側面に格狭間を刻んで中心飾りを彫りその上に背の高い反花座と受座を蓮弁で作り、竿は円柱で三節は外に強く張り出し中台側面は二区に分かち格狭間内に花菱文様を飾り、下端に複弁請花を刻み出す。火袋の四面に牡丹・獅子・鳳凰・孔雀といった豪華な文様を刻み、上区・下区にも種々の装飾を施して他に類を見ない華麗な表現である・・・。」というのがこれまで「大和系石灯籠の代表作として、鎌倉末期から南北朝期の造立と思われていた」という代物。

 

しかし文京区の椿山荘にこの形式とまったく同じ石灯籠が見つかってから、考証が進んで川勝政太郎氏がそれら鎌倉後期の重厚華麗の形式を忠実にコピーした「江戸時代の灯籠」というのが現在の評価です。

また竿と笠に関しても明治期に補完されたことがわかっています。

石灯籠の正立はバランスも悪く倒壊の憂き目は避けられません。風雨に曝され遺物が伝わることは稀なことですね。

 

 

石造美術の分類    「奈良県史7 石造美術」

清水俊明  奈良県史編集委員会

14 石灯籠

灯籠は仏像に献ずる灯明の仏具であり、わが国には仏教とともに伝えられ、仏殿の正面に一基建てて献じたものである。のち神前にも献ずるようになり、左右一対二基を建てるようになったのは室町以降のことである。

また桃山時代以降、茶の流行に伴い庭内に石灯籠を置くことがあり、江戸時代には常夜灯として道端に建てられることも多くなり、その用途も広くなった。

石灯籠は基礎・竿・中台・火袋・笠・宝珠からなり、火袋の形から八角型・六角型・四角型灯籠と称している。笠が六角または八角のものには軒隅に蕨手を作り出すものが多い。

北葛城郡当麻寺金堂前の八角型灯籠は軟質の凝灰岩を使用しているので摩滅風化も激しいが、胴張りのある竿、中台の蓮弁の雄大な形式は、奈良時代前期の古瓦の蓮弁様式に通じ、奈良時代前期、最古の石灯籠として注目される。

八角型で平安時代のものは奈良市春日大社の柚の木灯籠と呼ばれているものがただ一基の例であったが、これも近年樹木が倒れたおりに倒壊した。しかし現在その復元石灯籠(川勝政太郎博士設計)がもとの場所(若宮社脇)に建ち、破損した灯籠が宝物館に保管されている。

鎌倉時代になると六角型が主流となり遺品も多くなる。

奈良市東大寺三月堂前の建長六年(1254)灯籠はその代表的なもので、名工伊行末の造立銘がある。

基礎は自然石の上に八葉蓮弁を彫り出す。円柱の竿は節で強く締めた形でその上下銅部分が膨れて弾力性を感じさせ、中台側面や火袋下区に格狭間を入れ、上区に横連子を入れるなど重厚な趣を見せる灯籠で以後三月堂型と称して手本となり、この形の灯籠が多く作られた。

 

一般に鎌倉時代に造られた大和の六角型灯籠は装飾性が豊かで中台側面に走り獅子をしばしば用い、火袋に仏像・天部などを配して優秀かつ荘重感のある灯籠がきわめて多い。鎌倉時代は最も石灯籠の造形が整備完成した時代である。

四角型石灯籠は鎌倉末期頃から遺品があり橿原市一町浄国寺の正和五年(1316)銘は古い遺品である。

奈良春日大社のの御間道にあった元享三年(1323)四角型灯籠(現在宝物館蔵)は細部に優れており、基礎側面に孔雀・鹿・蒼龍の文様を刻み出し、中台側面にも走り獅子を彫って優秀な作風を示す。四角型は簡素な形式から神社石灯籠にふさわしいところから春日大社をはじめとし神社に多く用いられるようになる。

石灯籠も室町以後になると装飾性にのみ走り、技法にも衰えを見せ荘重感のない灯籠が多くなる。

 

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コメント: 4
  • #1

    野村庄右衞門幸正 (金曜日, 07 8月 2020 18:07)

    昨夜カンブリア宮殿という番組をたまたま観たら築地本願寺のリモート法要や、結婚相談所を始めたとか看取り僧やらとそちらの銀行マン出身住職さんが奮闘しているという内容でした。
    なんか、いろいろ大変なんだなと思った次第です。
    在勤僧侶の方々は寺院で生活してるわけじゃないのもビックリしました。出勤…という形でタイムカードの代わりに指紋認証のようなハイテク機器を使っていました。

    それよりも建物が美術館ですか?といった趣の洋館で驚きました。

  • #2

    今井一光 (金曜日, 07 8月 2020 20:19)

    ありがとうございます。
    その情報はやはり東京在住の友人から得ていました。
    築地本願寺はかなり以前ですが、遊びに行ったり、山﨑貞一氏の葬儀にも座したことがありました。あちらは宗旨関係なくホールを貸し出しますからね。
    そして何より「お西なのに斬新」を思いますね。最近はどちらかというと「東」が保守的のようにも感じてしまい。
    教如さん筆頭に以前はぶっ飛んでいましたからね。

  • #3

    野村庄右衞門幸正 (金曜日, 07 8月 2020 20:26)

    なんか流れで東本願寺派のホームページも覗いてみたのですが、本家はウチだぞ!アピールが強いですね。真宗大谷派が変わってしまった…と記されていました。詳しくは知らないですが、宗家当主が飛び出して別家を立てたみたいな感じなんでしょうか?
    德川家でいうと德川宗家とは別にできた德川慶喜家みたいな。

  • #4

    今井一光 (金曜日, 07 8月 2020 20:52)

    ありがとうございます。
    いわゆるそれが「お東騒動」というヤツですね。