いつものマヌケ 奈良でボケかまさなくても石位寺

昼間のクマゼミ大合唱の余韻が耳に残っている`ヒロシマ`の前夜、BSの「八月の狂詩曲」にチャンネルを合わせました。

私が未だ行ったことが無い長崎の様子(少々古いですが)が画面に映し出され、あたかもこれも一つの「リモート観光か・・・」と思った次第。

田圃の畔に立つ石仏もいい味を出していましたがリチャード・ギアが茅葺の御堂に掛かる「倶会一処」の文字を見て「アレハ、ナニデスカ?」のシーンは印象に残ります。

そしてNHK「潜水艦伊400」。日本の当時の創意工夫と技術というものにも驚きましたが艦長の英断で乗組員全員が郷里に帰還出来た事はすばらしいことでした。

 

さて、コロナの分科会のお歴々が久々集まったとのこと。

沖縄・福岡など緊急性を帯びた発信をしている中、のんびりしたお集まりです。

その会は政府に「提言」とやらをして政府はそれを聞いて、なんたら・・・の行動の指針にしようというものらしいですが、そもそもそれはインチキ臭さプンプンの忖度をのみ発していますのでこちらとしてももはやどうぞお好きに・・・といったところです。

まぁ御しるし、お人形の程度の集合でしょう。

昨日も記したよう、官邸の責任転嫁を担う会なのでしょうね。

よってその代償として「いくら貰った・・・」「見返りは・・・」

などの嫌味が出てくるワケです。

 

最近はテレビに登場してソーリ殿のダンマリ、イヤイヤのガキの躰の無責任についてそれを弁護しヨイショしたりする人が出てくるとやはり、「何を狙ってる・・・」とつい思ってしまいますね。

本当に社会や民の事よりも手前の身の振り方のことばかりに御執心の輩ばかりのようであらためて人の煩悩というものを見せつけられています。その姿を見て何かと私の方が反省させられます。

 

まぁなるようにしかなりませんが、お盆休み直前の今になってその分科会がまとめたことといえば要するに「注意して帰省してね」という感じだったよう。

まぁゴリ押しして引くに引けなくなって継続させている「Go To」との整合性をとるものでした。

とはいいながらお盆帰省と「Go To」についてのアンケート調査 によると

①旅行・帰省するが14%②旅行・帰省しないが66%(③迷っている20%)で世の中の人たちの方と政の方向性と異にするところがわかります。

その雰囲気が感じ取れない浅はかさよ・・・嘆かわしい人たちです。

 

本日も昨日の続き。石仏です。

画像は~日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」東京国立博物館~に今年の春出展されていた奈良・石位寺蔵「浮彫伝薬師三尊像(飛鳥~奈良時代・7~8世紀)のもの。

展示はコロナの影響で早期閉展となっていましたが、根っからのアホな私はそれを知らずに現地に出向いて呆然、地団太を踏んでいました。

 

まぁそもそも撮影は禁止されていますので三尊像はサイトから転載したものです。まぁ「一応行った」ということで満足しなくては。

 

 

 

石造美術の分類    「奈良県史7 石造美術」

清水俊明  奈良県史編集委員会

13 石仏

石仏には種々の形態があり、形態別に条目を設ける必要がある。

そこで、その構造形式に基づいて六条目に分ける。

1 摩崖仏

2 一石仏(単独仏)

3 石龕仏

4 石窟仏

5 笠石仏

6 石棺仏

また、手法による分類を七種類とする。

1 丸彫り

2 厚肉彫り

3 半肉彫り

4 薄肉彫り

5 彫り込み半肉彫り

6 線彫り

7 浮き出し線彫り

素材として用いられる石材は凝灰岩・安山岩・砂岩・花崗岩・緑泥片岩といったものが多く、主にその地方で産する石材を使用することが多い。

 

摩崖仏は露出した岩層面に彫刻したもので、場所的にも山岳地帯や都会から離れた僻地に多いのは当然の事である。摩崖仏は造形的条件から立体的なものを造ることは難しいが、周囲の自然ととけ合って独特の魅力をもつものである。

大和地方では奈良時代前期から摩崖仏の造立が始められていたもので奈良市大和田町矢田丘陵の滝寺跡摩崖仏などがその遺品である。

 

一石仏(単独仏)は摩崖仏とは違い、その用材を工房に運び入れて工作できる便利さがある。移動可能な範囲の石材を用いて造った石仏を指していう。工作が自由である利点から木彫仏に劣らぬ立体的な造形も可能であり木彫仏と同様に堂内に安置される例もある。

しかし多くは外部にあって路傍の仏といった性格をもつものである。

桜井市忍阪石位寺三尊石仏などは一石三尊仏であり、一石で台座・光背・天蓋を造り、中尊の左右に脇侍を彫っている奈良時代前期の石仏である。

 

龕仏は切り石または一石で「龕」(がん 仏殿)を造り、その中に石仏を安置したものである。

わが国最古の遺品は兵庫県古法華三尊仏で奈良時代前期のものであるが、奈良市十輪院の龕仏は規模も大きく構造も優れたものである

天理市七廻峠の建長五年(1253)地蔵龕仏は花崗岩の切り石を使い側石を立て、大きな一板石を上に載せて屋根石とした簡単なものであるが、古い時代の龕にはこうした素朴な構造のものが往々にあり、野趣があってそれが魅力的でもある。

南北朝時代ごろから奥行きの少ない箱形の中に石仏を彫った龕仏が造られるようになる。

長方形、または方形の石材を使い表面に枠取りを残して内部を彫りくぼめ、その奥壁に仏像を半肉彫りするもので、上に宝形の屋根石を載せることが多い。これは龕仏の退化したものであり、室町・江戸時代にこうした小龕仏が多く造立されている。

 

龕仏は岩層を深く彫りくぼめて窟状を造り、その壁面に仏像を彫り出すものである。

奈良市春日山石窟仏、春日奥山地獄谷石窟仏は平安時代後期の石窟仏として有名なものである。こうした石窟仏は大陸の石窟寺院の影響を受けて造立されたものと思われるが、わが国では規模の大きなものは造られておらず、あまり流行しなかったものである。

 

笠石仏は自然石、または方形状の石材に仏像を彫り、その上に笠石を載せたものである。笠塔婆・龕仏と混同されやすいが、条目別にして分類すべきであろう。

たとえば、生駒郡三郷町一針薬師(鎌倉初期)などは、大きな自然石表面を平らにして磨き、薬師三尊十二神将を線彫りし上に自然石の笠石を載せている。

こうした横幅の広い石材を用いた笠石仏は一般的に背の高い笠塔婆とは根本的に造趣を異にするものであり、笠石仏とするのが適するであろう。

石棺仏は他の石仏と異なり、その素材に古墳時代の石棺材を転用して造るもので、県下をはじめ大阪府河内地方、兵庫県加西市、姫路市別所方面に多く見られ、荒廃した古墳石棺材を再利用したのである。石棺材に使用する石材は凝灰岩を使用することが多く、こうした石材は彫刻が容易であり、石仏を彫るのに適している。

また古墳石材そのものに霊魂が宿るといった考えもあったと思われ、霊石を用いた石仏としても意味があったのであろう。

 

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コメント: 2
  • #1

    くりくり (木曜日, 06 8月 2020 22:41)

    わたしども遠江でも存在石仏は結構な数があると言うことですね。地区にのこる南山にの西国三十三ヵ所石仏も凄い熱意を感じる文化財です。これも古来の民衆の信心深さのたまものでしょうね。

  • #2

    今井一光 (金曜日, 07 8月 2020 06:52)

    ありがとうございます。
    夥しい数の遺物と出会いますがそれに関わった人々とその人たちのそれぞれの思いが籠っているかのよう感じます。
    ついつい`教科書`に掲載されているような古物ばかりに着目してしまいますが、河原の石ころを墓石として代用した者たちの同様の思いを考えると私たちは過去の人たち、ご先祖の思いを踏みつけながら歩んでいるといっても過言ではないかもしれませんね。
    少々飛躍してしまいました。