業は「ごう」 多宝塔 一石五輪塔 五輪卒塔婆

東京の463人(新規感染者)は圧巻でした。

全国で1500オーバーも悍ましき数字。案の定断トツで沖縄(人口比)の感染者数が上昇している所を見て軽はずみなことはできない・・・と胸を撫でおろしているところです。

飛行機と新幹線は市中感染の巣窟となっているような気が・・・。

各専門家からもいよいよ危機的状況について切迫感溢れる声が発せられていますが、政府が新しく開いた「分科会」は昨日「1週間」という期間「検討する」とのこと。

 

本当に児玉先生が仰っていたよう「目を覆う」ような状況が見えてきているのに。

 

さて、昨日真宗の坊さんとしてつい目がとまってしまう記事がありました。

それが前東京都知事がネット発信したという「ALS業病」の件です。慌てて謝罪して訂正したそうですがあの人智を超えた病のことをよくもまぁ「業病」と言い放ったものかと呆れてしまいました。

「作家業」を今も営まれているかは知りませんが寒すぎる。

「業」とはいかにも仏教的「因縁」について語っているかに思います。

コロナの現状とは違ってその病に因縁などあり得ませんから。

 

当流でいえば蓮如さんの御文を紐解けば夥しいほどの「業」の文字が出てきますね。

特に「平生業成」での使用が一番ですが他にも「悪業」「罪業」「定業」「前業」「業障」(無明業障のおそろしき病~) そしてズバリその「業病」と言う語もあります。

ただし共通していえることは「我が身の~」または「人間の~」であって他者のそれを強調して云うものではありませんね。

そしてその「業病」の記述に関してはその段は齢を重ねた我が身の「老齢」についての件であって使用方法を異にします。

もし他者のそれを言い放つのであればそれをシャーマンとか占い師の如き業をなす者と解します。 

「<Go 病> ~ キャンペーン」と官邸の無策を揶揄するのなら当たっていますが・・・。

「無明業障のおそろしき病」とは「聞かない 知らない 知ろうとしない」の比喩であってまるで今の首相さまの様。

 

さて、本日も昨日の続き3多宝塔と4五輪塔の記述を。

画像は石造ではありませんが見栄えのする多宝塔を。

①京都永観堂②奈良円城寺。

③は滋賀石塔寺の阿育王塔、石造三重塔の括りとなって厳密には多宝塔とはいえませんが、筒身平面が方形であって周囲に五輪塔たちが並ぶ図です。

 

 

石造美術の分類    「奈良県史7 石造美術」

清水俊明  奈良県史編集委員会

3 多宝塔

 

多宝塔と宝塔の異なるところは、塔身の平面が方形であり、外観は二重塔で、下屋根の上に饅頭型が造られその上に平面円形の勾欄、首部があり、上層屋根・相輪を備えたものである。

宝塔とは外観こそ異なるが信仰の内容は同じである。

やはり平安時代から造立されている。

近江地方に作例が多いが、奈良県下には数少なく、平安時代後期のものでは大和高田市根成柿天満宮の多宝塔がある。

 

 

 

4 五輪塔

 

五輪塔の造立は全国的に最も盛んでその名称はたいていの人に馴染まれている。どこの寺院や墓地にも見られる塔形である。

層塔は中国・朝鮮に古くからあるが、五輪塔はわが国にしか見られず、わが国で造形され流行していったようである。

しかし、その初期形成は宝塔形式との密接な関係があるようで宝塔より五輪塔形式が生じたとの説もある。

五輪塔は密教の宇宙根本の思想である、空風火水地の五大五輪を象徴的にあらわした空(宝珠型)・風(半円型)・火(三角形)・水(円形)・地(方形)を積み重ねて塔としたものである。

こうした五輪塔形は五輪塔そのものは存在しないが、中国唐時代の大日経などに示された五輪図形が祖型であるという説もあり、大日如来の三昧耶形(さんまやぎょう)として信仰され、真言念仏者にとっては、それ自体が供養の塔であった。

弘法大師の七七日の供養に、その墓上に建てた五輪卒塔婆が、五輪塔の始まりともいわれる。

大和の古い惣墓地にはよく古く大きな五輪塔が中央の高い所に一基建っていることがある。これは忌明塔とも称し、死者の遺族は死者をその墓地に埋めた後、七七日の忌までこの塔に詣り、死者の荒魂(あらみたま)の霊を鎮めるため供養し、忌の明けた四十九日(七七日)になると、この塔に死者の霊と別れを告げ、それ以後は和魂(にぎみたま)となった死者の霊を別の墓塔に移してその墓塔を供養したものである。

北葛城郡當麻北墓の五輪塔は大和最古の五輪塔で、藤原時代の造立と考えられ、宝塔様式が残っている。

西大寺奥院の興正菩薩五輪塔は鎌倉時代の代表的な塔で、この時期の五輪塔は五輪形をよく厳守して造形されており、造形的にも完成された美を備えている。

古い時代の地輪は背が低く安定感があり、水輪は円形に近く、火輪は三角を石造で形成するには困難であり、三角形の火輪もまれには存在するが、造形的には笠石のように軒を作り、建築風の宝形造りになっている。

空・風輪は普通宝珠形にしたものが多い。地輪(基礎)・水輪(塔身)・

火輪(笠)・空風輪(宝珠)で造形された塔というわけである。

五輪塔を大日如来の三昧耶形とする教理からその四方各輪に四門の梵字、発心門・菩提門・涅槃門を配して刻むことが多い。

また、そのうち一門、発心門のみを刻んだものや「空・風・火・水・地」の文字を刻んだものもある。そのほか、水輪四方に四方仏の種子を配した塔、地輪に阿弥陀像をあらわした塔も数少ないが存在する。

 

一石五輪塔

 

室町時代以降、五輪塔は一般的に小型化する傾向があり、造形美的にも退化していくがこうした時代にあって一般庶民の間で著しく造立された小型一石五輪塔がある。

奈良県下では高野山の仏教文化の影響を受けた五條市吉野川流域に多く見られ、この地方特産の緑泥片岩(吉野石)を使用して、高さ50㎝、幅15㎝ほどの小型一石五輪塔を造り、その地輪部に年号・法名などを刻んでいる。

室町時代中期、文安・長禄・応仁・文明・大永・天文といった年号も多く、二千数百基がこの地方で確認されている。こうた大量の一石五輪塔の造立で、中世の一般庶民に仏教が浸透していったことを知るのであるが、特にこの地方と紀ノ川流域にかけ「大念仏衆」といった念仏信仰の刻銘が石塔によく刻まれているところから、高野念仏信仰が一般庶民に広く普及していたことを物語るものである。

一石五輪塔はこうした念仏信仰を中心に詣り墓の墓塔として広く需要に応じて大量に製作されたものであろう。一石五輪塔の形式も卒塔婆のように少し地輪を長くしており、高野山町石卒塔婆の形式を移したものと考える。その長い地輪部と水輪部にかけて舟形を彫りくぼめ阿弥陀や地蔵像をあらわしている塔もある。美術的には退化の著しい時期のものであるが、庶民信仰の資料として注目すべきものである。

 

五輪卒塔婆

 

一石で五輪塔を造り、その地輪部長くしたものを五輪卒塔婆と呼ぶ。五輪塔は各輪部を別石で造るのが本格式であるがそうした五輪塔とは離れた趣意の形式をもつ塔が鎌倉時代以降になって造立されるようになった。それが五輪卒塔婆である。

五輪卒塔婆の長い地輪部(基礎)を地中に埋め立て、その地輪部に願文・法名・紀年号などを刻むもので、木造卒塔婆の内容と同じである。高野山の町石は五輪卒塔婆の形式で造られていることで有名であり、鎌倉中期文永二年(1265)の発願で弘安八年(1285)に高野口の慈尊院から伽藍まで、また奥院に至るまで延々二百十六町にわたり、一町ごと造立完成したものである。

このように町石として使われるのはその長い方柱状の形式が町石・道標に適したところからであり、単なる道標でなく、卒塔婆として信仰心から造立される意味も大きいからであろう。

五輪卒塔婆は鎌倉時代以降、室町時代の造立になるものも各地にあって、その形式も高野山町石のような平面が方形的なものではなく、板状式五輪卒塔婆のものも造られ、各輪部に梵字を刻んであるものや六字名号をあらわしたもの、阿弥陀・地蔵を彫った形のものがあらわれる。