神明三か条 蓮如さん御縁 碧南の西方寺

パチンコ屋さんでクラスターが起こらない理由についてどなたかが仰っていました。

それはホールの空気の入れ替えが定期的に行われるということもありますが、緊密状態であってもマスクを着用してただひたすら「沈黙」して台に向かっているからだといいます。

黙してにらめっこ、ただただ大当たりを念ずるのみ・・・。

 

首都圏、大阪はじめ新幹線の清掃員の感染やら、与論島のクラスターに沖縄ベース関連の大量陽性者の発生はもはや「止まらない」の様相には誰もが黙ってみていられないところでしょう。

それをいつまでも手をこまねいて何もしない総理ドノはひたすらのダンマリか口を開ければいつもの「緊張感をもって見守る」というだけ。

気づきというものが無いというかここまで国民を不安に落としてどうするつもり・・・? と思うばかりですよ。

 

その「沈黙」といえば映画化にもなった遠藤周作の小説でしたが、それはイエズス会の一つの修行方法で浄土系宗旨の観想や念仏と同じような考え方、似ているといえば似てますね。

イエズス会の修行の「掟」のようなものかも知れません。

 

現在アメリカからの映像でコロンブスを顕彰する銅像などが引き倒され、ペンキをかけられ、こん棒でぶっ叩かれで打ち捨てられるなどの様子を見せつけています。

まぁコロンブスに限らず奴隷売買など人権にかかわることで大成したような「偉人」のシンボルが世界で引き倒されていました。

 

コロンブスといえばてっきりインドに行くつもりでアメリカとカリブ海の島々(西インド諸島)を偶然に見つけてしまったといういわゆる歴史の「快挙」の方に目が行って讃えられてきたといったところでしたが今回彼が強烈にバッシングされるようになったのはその負の面(富の奪取と殺戮と原住民奴隷化、開発破壊そして未知の病の導入)に人々が気が付いたからでしょう。

 

原住民のことを「インディオ」と呼んだり「インディアン」などいう言回し(「西インド諸島」なる名も)は今後消え去ることはないでしょうがそのコロンブスの「勘違い」がそれほどの歴史的誤算による発見だったかということです。私がブログ更新に上書きしてしまう「勘違い」とはスケールが違います。

 

コロンブスからはじまってネィティブの虐殺と侵略がこの1492年から一気に進んでカリブ諸国と南米大陸が植民地化されていったわけですが、その公用語の殆どがスペイン語(ブラジルはポルトガル語)で宗教が大多数カトリックという共通点があります。

今のアメリカ合衆国の成り立ちはずっと時代は後になってからのイギリスカトリックからの独立からでしたので例外です。

 

その植民地政策には強制改宗(カトリックへの)があったわけで既存の信仰を破壊し教会を建設して「心のコントロール」に力を入れつつそちらを中心にして開発、都市化、さらなる開発を行いそれを隣国等拡大伝播させる手法をとりました。

 

そう考えるとカトリック教国になりえなかった日本とアメリカの今の発展は経緯はちがうものの共通点があったと考えます。

しつこく記しますが、フロイスら宣教師(伴天連)たちがキリスト教流布という「心の支配」、人心の掌握と背景に将来の絶大な富を獲得しようとする本国の至上命題があったことについて記しました。信長を「鞭」として「利用」していたところに光秀の「本能寺」の件が起こったわけですがそれが無かったとしたら日本はカトリックの国になっていた・・・というのが私の最近の持論です。

 

さて、フロイスが「日本史」の中でその「使命」遂行の障害となった日本の神仏、神社仏閣の権威や「鞭」の活躍を期待した信長を討った光秀についてこのうえもない形容でもって罵倒していたところなどそのあまりにも勝手な(同じ宗教者として)発想に驚きを隠せなかったわけですが、自身信ずるものが一番でそれ以外のものはなく、オンリーワンであるとの確信は我ら一向一心の専修念仏の精神にも通じるところがありました。

 

その記述が誰の為にどういう目的で記したかという点で全く異にはしますが、当流にも御文という蓮如さんの発信がありました。

今回は「掟」という括りでその御文の中から見ていきたいと思います。

その「掟」といえばまずやはり蓮如さんの記した「改悔文」にあります。

 

その最後に記された

「このうへは 定めおかせらるる御掟 

    一期をかぎり まもりまうすべく候ふ」 でした。

 

「掟」なる古めかしくそれでいてそれを破った時に被る罰らしきものを推測すれば少しばかり恐ろし気な言葉です。

 

 

ではその「掟」とは何? ということになりますがしっかり御文の中に散りばめられています。

中でも御文の二帖-三「神明三か条」には「自今以後その成敗をいたすべきものなり」とその冒頭に「成敗」なる空恐ろしく感じる語が・・・それは吉崎御坊への出入り禁止程度のことかと思いますが当時の信仰の深さからすると死に近いような仕置きだったかも知れません。

 

その「三か条」を記せば

①諸法・諸宗ともにこれを誹謗すべからず

②諸神・諸仏・菩薩をかろしむべからず

③信心をとらしめて報土往生をとぐべき事

 

たったの3つの掟ですが、それを蓮如さんが記さなくてはならなかった理由は現実の門徒衆には難しいことだったのかも知れません。

しかし、①の如く、他流の誹謗についてついつい自分の信ずるところ、自身の信心が一番という自負が前のめりになればなるほど嫌悪したくなるというのが人間というものでそれはイケナイ、逆に「大切にしなさい」とその最初に戒めています。

淡々と私どもの信ずべき阿弥陀仏だけを信じて(他流の人の動向は無視しても)自身報土往生への志を結ぼう・・・ということでしょう。

 

当時の真宗の一向専念無量寿仏の考え方は逆に他流からの誹謗中傷の対象となる場合もあったでしょうから、それらについて「放っておけ」「争うな」「闘うな」の姿勢を蓮如さんが文字でもって示したのでした。

 

その後当流阿弥陀王国として経済圏の主軸大坂にあったのが石山本願寺。信長がその商圏利権を奪い、あるいは宣教師の布教という意が合致して本願寺を一掃しようとしたのでした。

本願寺の武装蜂起、顕如の檄文は当流自己防衛の最後の手段といってもいいのかも知れません。

 

先日は新しくできたホールが西に向かって本尊に礼拝する設定だったことを喜んだわけですが画像は三河の西方寺(場所はこちら)。

寺号に「西」がつけばまず大抵御本尊は阿弥陀如来ですが当流大谷派のお寺です。清沢満之所縁のお寺としても有名ですが蓮如さんとの関わりが深いお寺でもあります。

このお寺の正面で以前、蓮如展が催されました。

 

尚、蓮如さんが御文にあらわにした「掟」は他にも同様のもの含め「八箇条」(四帖目-八 「疫癘」の一つ前)などにも記されていますのでググっていただければと思います。