フロイスの光秀本能寺「かも知れない」①怨恨②野心

昨晩のブログ更新時のミスは自身「痛い」感溢れました。

まあ、一言で「勘違い」ですが、前日のブログに上書きしてしまったのでした。凡ミス連発はいつものことですが。

新規でブログを書き出せばまったくその恐れはないのですが、私は同一の構成と文字フォントと行間等をコピーして(ブログそのものを複製)画像をいれかえるやり方が手っ取り早いものがあってその横着をやったわけです。

それが複製したつもりで複製していず元ページそのまますべてを上書きしてしまいそれをアップした途端にそのミスに気づいたというバカさ加減。 お手上げでした。

いつもと同じようなゴロツキ坊主の大したことない記述ですので「まぁいいか・・・」と苦笑い。

 

連休に入ってさらっと店の前を通過したところ修理に出した車屋さんはお休み。ということであの軽トラは当分の間お預けでしょう。1週間経って修理の可・不可についても伝わってきませんが、奥方はイイ方に受け取って「現在復活を試みている」ということだからしばし待て・・・と。

 

処理場もお休みですからどちらにしろ花ガラの件はどうにもならないことですのでとりあえず大袋を1枚購入に走りました。

何しろ昨日は降雨は無かった割に墓参は殆どありませんでしたので花ガラは増えていず。助かっています。

そして驚いたのはそちらのS.C.には関東圏の車が結構に駐車していこと。ついそこばかりに目が行ってしまいますね。

 

東京で新規感染者の366人なる大層な数字を叩き出していた昨日、横浜の「奥の墓道」氏より憤懣やるかたないといったメールが入っていました。それが

「埼玉と神奈川。日々発表される陽性者数は似たようなもんだが埼玉の検査数は神奈川の3倍。ほんと、にこやか弁舌爽やか黒岩は信用出来ない。

東京並と言わないがせめて埼玉と同じ1日1000件位やれば大阪並の数字は確実」・・・。

彼は 神奈川が「数字隠し」とも思えることを行っているのでは・・・と訝しく思っているよう。

 

それを「Go To」。

東京のみを外して神奈川・千葉・埼玉はどうぞという政府のやり方は地方の国民殺し、国のテロといわれても仕方ないのでは・・・

私は神奈川県内に長くいましたが神奈川県は東京と同じようなものですよ。往来も頻繁ですし、学校も仕事も「東京」というのは「当たり前」の場所。

線引きできる意味などこれっぽっちもありはしませんからね。

静岡県も日々(昨日は5人)増えてきていますし西側のお隣、愛知県も過去最多(昨日は97人)の数となりました。

 

2週間後、全国で感染者の「バクハツ」がありそうな・・・官邸によるイチかバチかの賭けの結末は・・・その前に首都圏の病院受け入れがもつかな・・・無責任な政府の件国民は本当に困り果てます。

どうか連休は地元でじっとしていましょう。

「私は大丈夫・・・かも知れない」の根拠は?

小さい頃「病気はしっかり治してからお外で遊びましょう」と言われたでしょうに。

「空気感染」があるとすればマスクも消毒も手洗いも空しいことになりますぜ・・・再考願いましょう「Go To 墓場」。

 

さて、先日来フロイスの記述をちょこちょこと抜粋して記していますが、外国から船で突然やってきた異教の坊主(宣教師)による「(何も実情を知らない)上司への報告書」という形態で、それを読み下していくに違和感が多々ありました。

もっとも「フロイス日本史」ほど戦国時代に特化してまとまった文献資料はありませんので、事象そのものを見ていくにはこのうえないものですから外せませんね。

 

要はわが国の歴史のうち「定説」といわれているものは大抵そこから引っ張ってきているのですから。

 

ではフロイスが思う光秀が信長を討った理由についての記述は坂本城の記述のあとに続きます。

「信長は奇妙なまでに親しく彼を用いたが、このたびはその権力と地位を一層誇示すべく三河の国主(徳川家康)と甲斐国の主将たちのために饗宴を催すことに決め、その盛大な招宴の接待役を彼に下命した。

これらの催し事の準備について信長はある密室において明智と語っていたが、元来逆上しやすく自らの命令に対して反対意見を言われる事に堪えられない性質であったので、人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり怒りを込め、一度か二度明智を足蹴にしたということである。」

とあります。

この件はその理由として私たちが長い間その理由であるが如く聞いていた「怨恨説」ですね。

フロイスは巷間この噂が広まっているところ執筆の1590以前には知っていたということです。

 

そしてフロイスは本当はこうであると、明智光秀の本心を、おそらく宣教師としてその布教の途を頓挫させるに至った明智についての憎悪らしき心情が見える記述が続きます。

 

「このことから明智は何らかの根拠を作ろうと欲したかも知れぬし、あるいは(おそらくこの方がより確実と思われるが)その過度の利欲と野心が募りに募り、ついてにそれが天下の主になることを彼に望ませるまでになったかも知れない。」

 

当時の人たちの感ずるところがその「かも知れない」の主観であってやはり光秀の心中を読み解くのはカンタンではないでしょう。

特に異文化圏からやってきた宣教師の発想で片付けるワケには行きません。

 

画像①は以前も記した事件現場ではない場所に再建された本能寺。②③が実際の本能寺跡周辺。細い路地が交差する住宅地にあります。フロイスによるとこちら周辺には光秀討伐と信長追善のために夥しい首が集められたことを推測できる記述もありました。

京都の街中に壮大な墓場があることを思い起こしたところです。