フロイス記述 仏教界に信長の鞭を振るわせるデウス 

昨日は月一の史料館での史蹟研究会の会合。

ほとんど雑談の域ですがまぁ情報交換の場。あっという間に2時間が経ってしまいます。

先日は「相良海老」について中日新聞(静岡版)の取材で小澤会長の顔が大きく出ていましたが次は静岡新聞の取材を控えているそう。

前回の掲載で史料館へ訪れた方たちがあり、トータル10冊程度の購入があったようです。

メディアに登場すれば反応は得られるものです。何せ宣伝はしていませんからね、有難い。

 

昨日の発見というか初めて聞いた、それでいて毎年この時節の「当たり前」の景色とのことです。

事務所の床にカニが這っていたいたことからその話になりました。

サワガニの類と思われますが史料館の奥の方にまでぞろぞろとやってきて出口不明となったカニたちが死んでいると。

「もっと大きく赤いヤツも来る」と名波氏。

まったく初めて聞いて驚かされたわけですが、よくよく考えれば相良川(萩間川)を引き込んだ堀と低湿地帯に浮かぶようにあるのがここ相良城本丸。

このカニのDNAは武田時代からいたカニから引き継いでいるのかも・・・

地盤の悪さも改めて感じました。

 

さて「フロイス日本史」第五章(中公書)P154~にカトリック布教使による畿内布教の障害となる紀伊の国の勢力についての記述を転記しました(こちら)。

「堺の付近を和泉の国と称するがその彼方には国を挙げて悪魔に対する崇拝と信心に専念している紀伊の国があり一種の宗教が四つ五つありおのおのが共和国的存在である・・・」

高野山・粉河寺・根来寺と続けてその次、雑賀です。

 

「紀伊国の第四番目の人々がいる地方は雑賀と称せられヨーロッパ風に言えばいわば富裕な農民であった。それと違うところは彼らは海陸両面での軍事訓練においては根来衆にいささかも劣らなかったし、つねに戦場で勇敢な働きぶりを示してきたので日本では彼らは勇猛にして好戦的であるという名声を博していた。

彼らは僧籍を有せずすべて一向宗の信徒であり、かつて大坂の街および城(石山本願寺)の君主であった仏僧(顕如)を最高の主君に仰ぎ、彼に従っていた。

織田信長は六年にわたって(休戦期間含め実質約11年)顕如を包囲したが、しばしば大坂には悩まされ、信長勢は彼らの攻撃を受けた。当時この僧(顕如)をもっとも支えたのは、彼が常時手許に置いている6~7000人もの雑賀の兵であった」

フロイスの本願寺のイメージはかなりの味噌クソですが、それだけ彼ら宣教師たちから見て布教の障害(仏教教団~概して異教徒と呼ぶ)としてあり、信長の強敵であったことからでしょう。

一つフロイスに説教したくなるのは(彼にとっては邪宗異教徒の戯言としか受け取らないでしょうが)「大坂および城」ではなく石山本願寺、要は寺ですからね。城の如くに思えるのはやむを得ないとして「顕如」をそちらの「君主」との言回しと「仏」への無理解には違和感があります。

しばしば彼はその「諸仏」について土俗的「偶像崇拝」と毛嫌いの対象としていますが(時代が違うといえばそれまでですが)私などカトリックの神に対してそのように冒涜するようなイメージを持ったことなどかつてありませんからね。

そのフロイスの憎悪を含んだ罵詈から宣教師たちには遂行中の別の目的(日本人の「心を侵略」して中国進出の駒とする)があったことをも推測できるというものです。

 

信長の敵=カトリックの敵の構図はわかりやすいものがありますがカトリック教会の最大なる後見人は信長であり、もしカトリック勢力を排除したいと思う者があれば・・・「信長を断つ」ことが一番手っ取り早いという構図も考えられます。それは仏教文化の保護者として・・・

 

以下続けてフロイスが信長の仏教勢力淘汰の差配について「デウスの意向・・・」と記した箇所があります。デウスの意向はカトリック神父たちの意向であることは言うまでもないこと。

つまるところスペイン国王の意向なのです。スペイン国王の意向は東洋の富の奪取でした。

 

「我らの主なるデウスはその無限の御智恵と聖なる摂理によって、はるか以前から多くのことを取り決め処理され給う。

まさしくそれらは紛れもないデウスの御計らいなのである。

デウスは我らの考え及ばぬような手段をもって日本における悪魔に対する礼拝を消滅し根絶させていかれたが、たとえわれらがそれと同じ方法でもってそのような効果を期したとしても、到底可能なことではない。

けだし主なるデウスは何らキリシタンが策略を弄する必要がないように、またイエズス会員である我らが異教徒たちから恨まれることもないようにと織田信長を仏僧たちに対する鞭に起用し彼をして比叡山の大学を含めた多数の寺院を破壊せしめ給うた。」

 

これは宣教師たちの当初からの策略がトントン拍子のうちに進んでこの上ない成果を上げているところの記述ですが「信長を鞭として起用」の部分に彼らの本質というものがうかがえます。

つづけて信長に限定されない寺院が含まれますが、そのデウスの手柄(信長を鞭に仕立てた)について記した箇所そして最後に本願寺への憎しみのこもった記述があります。

 

「それ以外にも奈良の大仏・天王寺・住吉・播磨の書写山など日本で著名であり多くの参詣者をもつ多数の寺院が同じような運命をたどり信長が公方様(足利義昭)との関係から上京の街を焼き討ちした際、周辺のすべての寺院が破壊された。

今はまた彼の後継者羽柴秀吉が根来衆の宗派の一切の寺院、偶像とともに破壊し粉河や雑賀の者どもを退治し、日本で著名な大和の国の多武峰宗(談山神社)さらに大坂石山本願寺の仏僧の傲慢と虚栄を打ち砕いた。

すべてこれらのことはデウスの聖なる福音、ならびにキリスト教の栄光を弘布しようとの予定された御配慮に外ならない」

 

これらの記述を見て、信長の背中を押していたのは宣教師であったと考えるのは当然の流れ。その流れを断ち切ったのが明智光秀だったということになります。

勿論信長が目論んだその布教許諾と彼らを守護する対価とは鉄砲と硝石そして弾丸用の鉛塊でした(弾丸と硝石)。

 

画像はかなり昔の四天王寺の画像。天正四年に信長が焼き払ったといいます。

最後の画像2つが昨日の史料館。カニの動きはすばやくうまく撮らしてくれません。撮影後速やかに退出いただきました。