当流門主交代 フロイスの「ナザレ人」に僧兵を思う 

牧之原市から災害支援の情報収集に4名ほど人吉に向ったというニュースがありました。

先が読めない世の中ですが、何とか強い思いで復旧に力を注いでいただきたいものです。

 

全国ニュースではJリーグとプロ野球の試合に「観客を入れる」(10日より)とのアナウンスがありました。

それを嘲笑うかの如くの警告見解がWHOに寄せられたといいます。

世界の科学者239人が今の対コロナウィルスの方策、手洗いとマスクとソーシャルディスタンス2mの在り方への警告です。

要はコロナは「空気感染する可能性がある」というもので「ウイルスが空気中で数十メートル移動できること合理的疑いの余地なし」と。

 

これまで春先のクルーズ船の件以来その空気感染について「絶対ない」と言い張っていた「専門家」の皆さんたちの「ご評価」是非にお聞きしたいものです。

 

それによると「3000個の飛沫粒子」のうち比較的大きい(直径5〜10マイクロメートル以上)ものは1〜2m飛ぶというのがその人と人との間隔「2m」の根拠でしょうが時速80㎞で放出されたより小さな飛沫は空気中を浮遊し長時間漂うということ。そしてコロナウィルスは最長で物体の上で不活化に「9日間」のインターバルを要したといいます。強烈なパワーに脱帽です。

人間が9日間飲まず食わずでいたらまずは死するでしょう。

 

警戒は怠れませんね。店頭に並ぶ品物も自宅に持ち帰ったら「まず消毒」の心構えが必要です。

そして昨日の夕刊の記事。「アベノマスクは効果なし」の件。

「漏れ率100%」とのこと。やっぱりね・・・まぁ大きい飛沫拡散防止には役に立つのでは・・・。

 

東京は以前も数値を提示しない「モニタリング」とやらの魔術(フロイス風に)についてその「やれやれ」感について記しました通りですが、「専門家に分析してもらい、都が評価して判断」という文言がありました。

その件について世界の指導的専門研究機関12大学から嘲笑が起こっているようです。その世界的権威「グローバルAI倫理コンソーシアム」にて「意味がない」と酷評されていました。

あるニュースではその日本の専門家会議についてまるで「部族長老会議」と大バカ呼ばわりされてもいました。

 

「専門家」とやらのエライ方たちも当初より新コロのことを風邪みたいなもの、若者は大丈夫、空気感染はナイの如くで今考えるとまったくもって素人と同じようなものでした。

もう会議でも何でもご勝手に・・・といったところですね。

 

さて昨日は彼ら伴天連が感じた本願寺について触れましたが勿論宣教師たちが忌み嫌う(排除したい)仏教宗旨は本願寺以外ほかにもあったわけでその辺り「フロイス日本史」から抜粋してみます。

 

紀伊の国の記述第五章(中公書)P154~高野山と粉河寺の記述。

 

「堺の付近を和泉の国と称するがその彼方には国を挙げて悪魔に対する崇拝と信心に専念している紀伊の国があり一種の宗教が四つ五つありおのおのが共和国的存在である・・・」

「これらの宗団の一つを高野と言い3000~4000の僧侶を擁している~真言宗と称し大勢の参拝、巡礼者が訪れるがいかなる女性もそちらに登ることが許されない。

周知のように、同所の仏僧たちは忌むべき輩であり、その生活は淫猥を極めたものとなっている

「同国にある二番目の宗団は粉河と呼ばれる。それは前者と比して人員も規模もはるかに劣るので特筆する値はなく割愛する」

 

2つ目の粉河寺は現和歌山県紀の川にある寺ですがかつては根来寺や高野山金剛峯寺と肩を並べる大寺院でした。

天正十三1585年の秀吉の紀州征伐によって完膚なきまでに焼き払われていますのでフロイスにとっては取るに足らない勢力(布教の障害にならない)となって「特筆に値しない」という表現となったのでしょう。

 

まだ秀吉が伴天連追放令(1587)を出す前のことで、これら宣教師の「今の最大スポンサー・・・秀吉」と同調した記述になっていますね。

 

「3番目」に挙げられたのがネゴロシュ(根来衆)です。

その内容は特に興味をひくところで着衣装束について触れているところに目が留まりました。

 

「彼らは絹の着物を着用して世俗の兵士のように振る舞い、富裕であり立派な金飾りの両刀を差して歩行した~さらに彼らはナザレ人のように頭髪を長く背中の半ばまで絡めて垂れ下げ~一瞥しただけでその不遜な面構えといい、得体の知れぬ人柄といい、彼らが仕えている主-すなわち悪魔がいかなる者であるか-を示していた。

彼らの寺院や屋敷はきわめて清潔で絢爛豪華ではあるが一方では生活において忌むべき人間として堕落しているのである。」

 

フロイスの仏教勢力に対する罵詈雑言オンパレードは面白いですがこの「ナザレ人(びと)」の如くの記述について根来衆の僧兵(山法師)の姿がピンときました。

ナザレ人とはキリスト教聖地でありながらイスラム圏パレスチナのキリスト教徒への蔑称だと思います。フロイスはナザレ(アラブ)地区に多く生活しているベドウィンの装束がイメージされたのではないでしょうか。

彼らが頭に被るターバン状のものですが、キリスト教徒もその装束であったことが考えられます。

その装束が、僧兵の裹頭(かとう)-袈裟で頭を包むスタイル 

かしらづつみ-です。フロイスの言う「頭髪」ではないとは思いますが・・・。

そのベドウィンにも「部族長老会議」というものがありましたね。日本とは不思議な国に見えるのでしょう。今も昔も。

 

「長老会議」には私も首を傾げたくなりました。

 

 

画像は真宗本廟(東本願寺)御影堂。この7月に二十五代門主大谷

 

顕さんから二十六代大谷暢裕さんに代わりました。

 

スペインやポルトガルの宣教師とは逆です。当流がブラジルへ

 

の布教活動に赴いていますがこの方は1歳からブラジルで育った

 

人で通常はポルトガル語の使用だそうです。

 

物理学の博士という一面も持っていますね。

 

ちなみに拙寺先代、父の弟2人もブラジル布教使でした。筆舌に

 

尽くしがたいほどの日本文化とのギャップについて話していま

 

した。

 

 

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コメント: 4
  • #1

    小山昭治 (水曜日, 08 7月 2020 08:53)

    仏教の布教はどのように広まったのでしょうか。
    親鸞においても1軒、1軒回ったのでしょうか。
    きっかけは葬式なんだろうか。
    今は どうなんでしょうか。

  • #2

    今井一光 (水曜日, 08 7月 2020 10:53)

    ありがとうございます。
    ご開祖の場合は善知識法然さんと別れるまでは聞法主体の自己形成の時代だったかと。
    そして法然さんとともに流罪になってからいよいよ「阿弥陀仏の教え」を一筋に説いて歩いたのですね(流罪と言う四苦八苦がなければ真宗は無かったかも知れません)。
    流罪後の地では「講」という法縁、仏法をいただくという会を多く催したと聞きます。
    聖人の人柄もあって多くの参集があったことは確かですが、やはり16世紀に日本にやってきた宣教師の如く地域有力者(有徳なる人)のコネを生かして効率よく阿弥陀の教えを流布できたのかも知れません。

    当時の葬儀については「親鸞聖人御絵伝」のラスト部分に詳細記されています(洛陽遷化- 葬送荼毗-本廟創立)が、その最後の場面「本廟創立」が本願寺の原点となります。
    聖人の遷化に於いて多くの人たちが悲しんでいる様子が描かれていますが、それがまた当流の葬儀の原点でもあります。
    ここで付け加えなくてはなりませんが聖人の遺言はあくまでも「死したら鴨川」でした。しかし遺った者たちは「それはできないこと」と荼毘にして遺骨を納めたのでした。
    そこから蓮如上人に至って爆発的な発展となったというのが当流の歴史ですが親鸞聖人への感謝と報恩を日々のお念仏の中に混めつつ今生かされている我が身そのものを感じて命を頂いていることの御礼を縁者の「死」を機縁としてますます思い馳せ、将来を歩く糧としたい・・・というのが葬儀の意義となってきました。

    よって他流のことはよく知りませんが、当流に於いての葬儀は故人への葬送を機縁として我が身がどのように与えられた人生、余生を全うするかのテーマなのです。
    ついつい死者への供養のことばかりを考えがちになりますが当流弔いの意義を私なりに記せば「私の次のステップの指針」ということになるかと。

    人間はどうしてもそこのところ忘れがちになります。よって催される葬儀はその感謝の機縁であると思いそのたびに我が身のあり様をみつめようというのがその趣旨かと考えます。
    その死とは四苦八苦のうちの最大テーマであって釈迦以来の最大の我が身に与えられた重いお荷物です。逃げも隠れもできない無常で後生の一大事まで担ぎまわって行かなくてははなりません。
    それを真っ先に自ら立ち合い「もっと荷物を軽く歩こうではないか・・・」という教えが仏教であって煩悩に揺れ動く我が身の各機縁に巡り合わされるのがたまたま「合う」葬儀であるかと思います。「仕合せ」というとプラスイメージが強いですがその「合う」という機縁は大事にしたいものです。葬儀は「仕合せ」なのです。

  • #3

    野村庄右衞門幸正 (木曜日, 09 7月 2020 17:17)

    素朴なクエスチョンです。
    真宗大谷派、本願寺派、共に顕如さんの血筋で大谷派が長男。本願寺派が次男か三男?要は弟さん。

    宗家はどちらになりますか?分派しているのは政治的な意図が深く関わっているというのは調べて知りました。

    どちらも、顕如さんの後継者のスタンスで次の代を名乗っているので興味を持ちました。

    いわゆる“家“の感覚だと、どちらかが分家とポジションになりますよね。

    でも、大抵浄土真宗の名前が出てくると筆頭になるのは浄土真宗本願寺派。次が真宗大谷派。長男はこっちだぞ!と読みながらツッコミ入れたくなりますw

    あと、本願寺派以外はなぜ真宗○○派というのでしょう?

  • #4

    今井一光 (木曜日, 09 7月 2020 20:34)

    ありがとうございます。
    本願寺が最初に大きく分かれたのが顕如さんの長男教如さんと三男の准如さんです。
    順番通りに跡目を継ぎましたが秀吉の意向で准如さんに据え代わりますが教如さんは家康のバックアップを受けて、関ケ原以降復活したワケですがそのあたりの経緯は拙ブログ左側の「十一代顕如さん十二代教如さん」に概略記しています。
    まぁ一昔前は東本願寺は江戸幕府方西本願寺は西国(長州)大名方と単純に分けて双方仲が悪そうなところがあったようですが、親鸞聖人-阿弥陀如来の教えはまったく同じで
    要は兄弟のことで別れたことについて「今言っても仕方ない」と承認しあっています。
    他にも以前は真宗十派と「浄土真宗」を名乗る宗派がありましたが(今はおそらくもっとたくさんあるはず・・・)東西本願寺とは微妙に相違があったりします。

    乱立した理由の一つにやはり「お東騒動」がありましたがこれも一言で「分家」というご判断で。
    「真宗~派」といえばまずは「親鸞聖人の教え」という意味に理解しています。
    こればかりは本当に面倒くさいところです。
    登記上の件ですが、私たちは通称「東本願寺」とは言っていますが正確には「真宗本廟」が正式名称です。
    そちらは浅草の東本願寺が分かれて(やはり当時の門主の子供たちの問題)名乗りを上げてからのことです。
    また「本願寺」を名乗るお寺はたくさんあります。